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見た作品のその時々の感想置き場

『ブラックアダム』感想:JSA対ブラックアダム

今回は12月2日に日本公開されたDCコミックス原作のスーパーヒーロー映画『ブラックアダム』の感想。冬のブラックヒーロー祭り(勝手に呼んでるだけ)第三弾にしてトリである。とは言ったものの、個人的には三作中一番微妙だった。

封印から解放された主人公ブラックアダム以外に、ジャスティス・ソサエティ・オブ・アメリカ(JSA)と呼ばれるヒーローチームが登場。彼らとの闘いを経て、ブラックアダムがヴィランなのかヒーローなのかを描いている。

早速感想に入っていこう。

以下ネタバレ注意。

 

 

 

 

 

 

ブラックアダムとJSA

本作を観終えた私の感想を一言で述べれば、「JSA最高!!!!」だ。

設定面から演出、キャラクターまでとにかく私好みだった。

設定

JSAは、リーダーのホークマン以外のメンバーが流動的なのが良かった。組織の全容が見えずミステリアスでワクワクするし、その中から選ばれるのが4人という少数精鋭なのもかっこいい。ああ言えばこう言うウォラーとそれに律義に応えるカーターの掛け合いも楽しい。

こういう出自も分野も違うヒーローが集まったチームは私の大好物で、求めているカオス感を最低限の人数で表現してくれてて、それだけで本作を観たかいがあった。

時間をかけてオリジンをやったりしないのも良かった。今後の活躍を約束されたキャラクターばかりなのも疲れるので、こんな風に再登場するかもわからないあっさりした扱いのキャラクターがいてもいいと思う。

そもそも本作は「ジャスティス・ソサエティ」でも「ジャスティス・ソサエティVSブラックアダム」でもないのが巧くて、彼らが主役でないからこそあれだけバラエティに富んだチームをのびのびと描けたのだろう。

ビジュアル

彩度高めで、斜に構えずしっかりとコミック的な描写を実写でやっていて良かったと思う。

コスチュームで特に気に入ったのがドクター・フェイトのヘルメット。変身アイテム兼マスクなのでかなり印象が強く、彼の死亡シーンを始め様々な場面で効果的に使われている。のっぺらぼうで無機質なデザインもピアース・ブロスナンのセクシーな容貌とギャップになっていていい。

スーパーパワー演出はかなり凝ってて、全く系統の違う5人の超人の能力がそれぞれ個性的に、それでいてド派手に演出されていて視覚的に非常に楽しい。

JSAの4人については、飛行機から出撃するシーンからして四者四様で面白い。ドア使わず壁を突き破るブラックアダムと合わせて、超人の超人性を端的に5パターンもの多岐にわたって描いている。

サイクロンが繰り出す風に色がついて、彼女自身が風と一体化しているかのような演出は発明だと思う。「風を起こす」という能力からは想像できない幻想的な美しさに驚いた。

敵だけでなく観ている我々も欺くかのようなドクターフェイトの魔術も良かった。鏡やガラスのようなものを使っているので、光の反射や屈折をテーマにしてるようだ。

肉体派の3人の挙動にしても、ホークマンの飛行には重力や慣性の影響が見られ、物理法則を無視したかのようなブラックアダムの移動とは区別されている。アトムスマッシャーの重量感もいい。

ただ、同じ演出を繰り返すきらいがあり、後半は若干飽きてしまったのが残念だった。特に、ブラックアダムとサイクロンが能力を発動するたびに入るスローモーションがくどかった。

キャラクター

JSAのリーダーのホークマンと古参メンバーのドクターフェイトのキャラクターは良く練られており、二人とも初登場ながらすでに成熟したキャラクターとして描かれる。時間的に流石に説明不足感は否めないが、そこは俳優の存在感に頼って成り立たせられている。

不殺を信条とするホークマンは、近年珍しい王道のスーパーヒーローで好感が持てる。悩むことのない正義漢って近年のヒーロー映画だと少ない気がするので、却って印象的だった。

ドクターフェイトは既に引退したベテランヒーローで、旧友ホークマンの要請に応えて作戦に参加する。偏屈でもなくやましいこともない老人という、これまたアメコミ映画では珍しいキャラクターである。

というか彼の能力の一つである予知能力は、断片的な映像でしか未来が見えない、予知している間は意識がなくなるなどかなり使い勝手が悪い。それにもかかわらず、彼はかなりの長期間(台詞によると100年間)精神に異常をきたすことなく生き永らえている。つまり彼はそれだけ安定した精神を持っているということだ。そんな彼だからこそ、命を捨ててまでホークマンを救おうとするシーンが一層切なく見えた。…ことには違いないのだが、初登場のキャラの死をドラマにするのは予定調和としても浅く、少し冷めてしまった。死亡フラグ立てまくりで意外性があるわけでもないし。ピアース・ブロスナンの演技力でギリギリ保たれているシーンだと思う。

メリハリのない演出

この作品には派手なアクションシーンも外連味たっぷりの構図もたくさんあり、見せ場には事欠かない。しかし、見せ方は満点とは言い難い。

山盛りの見せ場の間を埋めるシーンが少なく、あっても魅力的とは言い難いため、緩急に乏しいのだ。ギャグシーンはあからさまでつまらないし、会話の内容も手続き的で気が利いていない。

また、見せ場もブラックアダムを中心としたアクションシーンばかりで、内容が似通っていて飽きやすいのも残念な点。

そして音楽も問題だ。事あるごとに重低音のテーマが大音量で流れるのには辟易した。ブラックアダムの封印後に流れた時には、ここで映画が終わるのかと不安になってしまった。

これらが原因となって、この映画は終始同じようなテンションで進むので、ひとつひとつのシーンが魅力的でも次第に感覚が麻痺してきて、ラストシーンでもスタッフロールが始まるまで映画が終わったのかどうかわからなかったほどだ。

ストーリー

本作の物語は、悪魔の力を封じた王冠を巡る争いや、アダムとJSAの対立を通してヒーローとは何か、テス・アダムとはどういう人物なのかを明らかにしていくというもの。

描き方はかなり大雑把で、アクションに比べドラマに割かれている時間が短く、内容はありきたりなのにかなり詰め込まれていることもあって、ダイジェスト的で味わいが薄い。無理のある展開も多々あり、撮りたいシーンのための口実作りでしかないのではないか。

そもそもがアトラクションムービーでストーリーは添え物といえばそうなのだろうが、それを認めた上で気になる点がある。

ヒーロー論

敵に容赦をしないブラックアダムと不殺を信条とするJSAとの対立は今作のストーリーで数少ない魅力だ。両者が対面する場面ではブラックアダムの方がカーンダックの人々の支持を得て、ヒーローを自負するJSAは冷たい視線を投げかけられる。

真意は不明なもののブラックアダムはその時点でアドリアナたちをインターギャングから守っている。カーンダックを軍事占領しているためインターギャングは市民から憎まれており、殺害はむしろ喜ばれる。人間を軽く消し炭に出来るブラックアダムだが、的を絞って敵を殺害していることもありコラテラルダメージも最小限だ(ドアを使わないこと以外は)。

対するJSAは世界規模の破壊力を持つブラックアダムに対処するために来たが、市民の支持を得られない。市民からすれば、軍事占領には目を瞑っていた上にインターギャングの命を助け、さらには英雄であるブラックアダムを捕えようとする彼らを支持する理由がない。この時点ではJSAがブラックアダムよりはるかに大きな被害を街にもたらしているのも問題だ。

対比が作為的なきらいがあるものの、敢えて「効率的」な殺害という手段を取らず人命を尊重するヒーローの価値と、そこに当てはまらないブラックアダムのヒーローとしての在り方を問うのは悪くなかった。

だからこそ、後半に進むにつれてこの問題提起がうやむやになるのは勿体なかった。喧嘩もしたけどお前いいヤツだな!!みたいに終わること自体は良いけど、悪役が人間じゃないから殺してもいい、っていうありがちなパターンにはうんざりする。

ブラックアダムの人格

ブラックアダムの能力は6体のエジプト神に由来するもので、その力を授ける魔術師評議会はのメンバーには『シャザム!』(2018)に登場した魔術師シャザムも含まれる。

魔術師評議会に選ばれたのがテス・アダムではなく息子のフルートだったのは捻りが効いていて面白かった。息子に守られ生きながらえた自分をヒーローと思えず苦悩するテスは力に溺れ堕落する原作と比べて共感しやすい人物になっており、本作の主人公が彼であることを考えれば、巧みなアレンジだといえる。

残念なのが、彼の考え方に関してはやや描写不足で、彼の行動に主体性が感じられないことだ。これは、前項のヒーロー論がうやむやになる一因でもある。

上述のように彼は息子こそが真の勇者で、自分はヒーローではないと言う。しかし、その割には行動に迷いがなく、容赦なく敵は殺すし、味方を危機に晒すまではJSAの意見も聞かなかった。自分の在り方を肯定しているのか否か、矛盾に葛藤しているのかどうか、ヒーローになりたいのか諦めているのか、判然としない。

容赦のない暴力を振るうアンチヒーロー像と、自分と向き合い過去を乗り越える主人公としての役割が嚙み合っていないのだろう。

そして、彼がヒーローとして目覚めるのに不可欠な支持者、カーンダックの人々の描き方にはかなり無理がある。

無理のあるカーンダック

5000年前、ローマより早い史上初の民主国家となったカーンダックは、今も昔も圧政に苦しんでいる。

5000年前の宮殿跡と石造を囲む都市、超パワーを秘めた鉱石、軍事占領下ととんでも要素満載のカーンダックだが、とんでも要素より気になったのは市民の描き方の雑さ加減だ。

唯一のレジスタンスが考古学者とその家族・友達で、それ以外の市民が全く描かれないのがきつい。今も昔も子供が手で三角形を作ったらホイホイ着いて行って戦いに参加するような市民を見ても共感など沸かないし、そんな市民に支持されたからヒーローだと思うことも出来なかった。

お喋りなヒーローオタクで主人公にヒーローとは何たるかを教えるアモンが、『シャザム!』のフレディと被り過ぎなのもノイズになった。カリームのジョークも私には刺さらなくて、変にコメディっぽい空気を作る必要はなかったと思う。ロック様が真剣な顔でトンチンカンなことを言ってる方が面白いし。

まとめ

ブラックアダムもかっこいいのだが、何よりJSAが素晴らしかった。混成ヒーローチームをいきなり出すのは、オリジンに時間を割かれるよりも却って観やすくてありだと思う。キャラクターの視覚的な差別化もかなり秀逸で、ワンシーンの魅力とボリュームはかなりのものだ。一方で、台詞やストーリーなど改善の余地も多く、せっかくのアクションシーンを最大限に活かしきれていない。キャラクターは好きだけど、映画自体は個人的な思い入れを抱くまでには至らないな。

『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』感想:埋められぬ喪失、少女の怒りの行く末

11月11日(金)に日本公開された『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』の感想。冬のブラックヒーロー祭り第二弾(私が勝手に呼んでるだけ)。

観てる間と直後は最高!って感じだったんだけど、あとから考えると結構問題も多くて手放しでは褒められない。

大切な人を失った人々の喪失感を推進力としながら、ブロックバスター大作としての派手さやMCUらしいノルマ的新キャラクターなどノイズとなる要素も多く、ストーリー上も喪失感と最後まで向き合っているといえるのか。本作が出した結論について、私は甚だ窮屈なものだという印象を持っている。

感想に入るが、もちろんネタバレは全開で、何なら前作に加えMCUフェイズ4の他作品に関するネタバレも若干あるので、ご注意を。

 

 

 

 

 

 

 

チャドウィック・ボーズマンの扱い

この映画を語るうえで彼の話題は避けられない。

前作『ブラックパンサー』(2018)の主演で、2020年8月に若くしてこの世を去ったチャドウィック・ボーズマンと彼が演じたティ・チャラが本作でどう扱われているか。

作中ではティ・チャラは1年前に病で亡くなっており、彼を喪ったワカンダの人々の模様が本作では描かれる。いうまでもなくこれは演者であるボーズマンの死と重ねられたものであり、本作をチャドウィック・ボーズマンへの追悼のためのものと考えるのは自然なことだろう。

この同一化は割と危険だと思う。代役を立ててティ・チャラの今後を描くという可能性を制作側から潰してしまっているし、そもそも様々な作品に出演していたボーズマンといちキャラクターを同一化するのは、俳優としての彼のキャリアを蔑ろにしてはいないか。

ただ、私個人としては追悼にはあまり興味はなく、飽くまでキャラクターとして見ているつもりだ。俳優としてのボーズマンはブラックパンサーでしか知らなかったし、ましてや面識などあるはずもないので、もちろん悲しくはあるが他人事の域を出ない。だから鑑賞前にはボーズマンを知る制作陣のテンションにはついていけないのではないかという心配があった。

まあここまで話したことはわかったうえで劇場に足を運んでいるので、気にしないで鑑賞することにした。実際に観てみると、生前のティ・チャラの意志を語りだしたり、CG再現でボーズマンを登場させたりはせず、最低限の品性は保たれていたので印象は悪くなかった。(あるワンシーンを除いては。鑑賞済みの方はお分かりだろう。)

この感想も基本的には、彼を飽くまでティ・チャラといういちキャラクターとして捉えたものとしたい。

それはそれとしてロゴのアレンジは好きだし、ああいう小技はMCUらしくていいんじゃないかな。

全部盛のお祭り

本作ストーリー自体は暗いんだけどそれはそれとして、ブロックバスター映画らしい見せ場もあって楽しかった。よくも悪くも、使えるものは全部使っている

本作は、前作で登場シーンが多かったオコエとナキアよりもラモンダとシュリを前面に押し出した結果、単体作品ではMCUの中でも稀にみるほどキャラクターが充実しており、クロスオーバー作品並みのボリュームが出ている。(ティ・チャラの家族だというシナリオ上の必然性もあるのだろうが。)

アクションシーンは印象的なカットがいくつかあり、冷静に考えるとおかしいものも多いけど、そのシュールさも込みで楽しかった。

序盤の支援センターでのドーラ・ミラージュ登場シーンは最高にかっこいい。銃弾を叩き落すのは思わず笑っちゃったけど、それくらいのテンションでもいいのかなと緊張が解れた。

アメリカでのカーチェイスは熱かった。こういう普通にかっこいいアクションシーンを黒人女性のみの3人で回してることはかなりすごいと思う。前作もそうだけど、キャストの大半を有色人種が占めていて、それが野暮じゃないブロックバスター映画を撮ってる時点で観る価値があると思う。リリのアイアンマンオマージュはどっちでもいいけど、アイアンマンスーツが凍結するような高度にあんなむき出しで飛んだら呼吸より凍傷を心配すべきだと思う。

最後の海上戦は続投キャラも新キャラも、戦える奴は全員投入されたお祭り騒ぎで楽しかった。空母の上に槍を以て並び立つワカンダ軍精鋭、命綱を着けて迎撃するドーラ・ミラージュなど面白いカットがたくさんある。

ただ、ストーリー的にはこの戦争は泥沼の復讐合戦の始まりなのに、ワカンダ側がヒロイックに描かれ過ぎているのが気になる。終わるときも君主同士の和解であっさり終わるし、暗いストーリーと乖離していていまいち乗り切れない。

後、いくら何でも強化スーツで飛び回るキャラが3人もいるはいかがなものか。せめてもうちょっと飛行の仕方とか身体捌きで差別化して欲しいところ。

喪失感と無力感、怒りの物語

自分がこの作品に個人的な思い入れを持ったのは、この作品のストーリーを牽引するのがティ・チャラを喪った人々の喪失感と無力感、怒りといったやり場のない感情だったから。

大切な人を喪った人々がその事実を受け入れられずもがく様は見ていて切なかった。誰かの代わりになる存在などおらず、残された者で補っていくしかないというものの見方は厳しくも現実的。伝統と革新の橋渡しとなったティ・チャラの穴埋めがまるでできないワカンダの現状が生々しい。本作のこういう点は、ここのところMCUが描く「遺族」に不満を持っていた身として素直に好き。

子を喪った『ドクター・ストレンジマルチバース・オブ・マッドネス』のワンダや『ソー/ラブ・アンド・サンダー』のゴアは暴走した狂人、ヴィランとして描かれており、喪失感を一歩引いて、遠ざけて描いてるようではっきりいって不愉快だった。『スパイダーマン/ノー・ウェイ・ホーム』は主人公のピーターがノーマンへの復讐心で満たされたのは良かったんだけど、よりにもよって並行世界の自分に止められてしまった。インチキだろうそんなの。

その点で本作のキャラクターたち、中でもラモンダとシュリはいい線行ってた。

シュリ

前作のシュリはありがちなお転婆な天才少女で、掘り下げらしい掘り下げはされていなかった。本作では喪失感と無力感で別人のようになっており、レティ―シャ・ライトにより後継者の名に恥じない存在感を持って演じられている。彼女の演技は総じて素晴らしいが、特に悲痛な鋭い目付きとまさに豹のようにしなやかな肢体が印象的。研究室のシーンであれだけ身体にフィットした衣装を着て映り続けてもだらしなさの欠片も見えない、徹底的に絞られた肉体美には思わず憧れてしまう。

ワカンダの伝統と革新の橋渡しになるティ・チャラを喪って、シュリは彼の跡を継ぐことを求められている。しかし儀式を始めとする伝統を軽んじる彼女ははっきり言って王に向いていない。(実はこの点において最もティ・チャラに近いのはエムバクというのは面白かった。)

国の象徴たるブラックパンサーの力を与えるハーブを科学的に再生するのは彼女が自身のアイデンティティである科学を通して伝統を受け入れる構図で、前作でティ・チャラがキルモンガ―やナキアの主張を受け入れ閉鎖的な伝統を打ち破るのと対比になっている。

戦い方に関しても科学技術を最大限に活用し自身に有利な状況を整えるのが彼女らしく、ここもリスクを承知で敵の懐に飛び込み対等な条件で戦うティ・チャラとは対照的だ。

一方で最も面白いのは、国王、そしてヒーローとしての精神性さえもが、前作のティ・チャラと本作のシュリとまるで違う点だ。国の侵略行為を止めるために身を賭した兄に対し、妹は自身の復讐のために国を戦争へと駆り立てる。その他の点でも彼女は復讐のために手段を選んでおらず、高潔さとは程遠い。ネイモアがシュリに共感し与えた母の形見をネイモアへの復讐のために利用したり、彼を攫い、弱らせ、自爆攻撃まで仕掛ける様はもはやヒーローには見えない。

ハーブを飲んで出会う人物がキルモンガ―だったのも頷ける。本作の彼女は怒りに燃えるあまり、彼と遜色ない復讐者へと身を堕としてしまうのだ。彼女がそのことをひた隠しにし、同胞にさえ心を閉ざしてしまうのも悲痛でよかった。

今回のブラックパンサーのコスチュームが、数々の喪失を経たシュリの変貌を象徴しているのも良かった。事前にデザインを見た際はやけに派手だなと思ったけど、金色のラインと斑点がキルモンガ―への直接的なオマージュだとは思わなかったな。

だからこそ決闘の結末には複雑な思いがあって、私は賛寄りの否といった立場だ。最後の最後で「本当の私を知る」母の幻影を見て、兄のように気高くあろうとする様は紆余曲折ある新たなヒーロー誕生譚の締めくくりにふさわしい。

…と思いたいんだけど、戦争まで仕掛けておいてあの一瞬で掌返すのはいくら何でも唐突。逆に言うと、ここまでシュリが堕ちてしまうのなら最後まで貫いて欲しかった。ネイモアではなく彼女がアンチヒーローとして今後のMCUで暗躍して欲しかった

ここで先述の、MCUフェーズ4での「遺族」の描き方に話を戻したい。私が不満を感じているのは、復讐心など強い感情で暴走したキャラクターが同じ作品の中で改心してしまう点。毎回それをやっているから予定調和になってしまってる。

何故ヒーローが闇堕ちする話ではいけないのか?私はここに癒しよりむしろ「ヒーローなんだからいい子にしなきゃだめでしょ」という躾にも似た窮屈さを感じる。

ラモンダ

前作のラモンダ女王はシュリ以上に掘り下げがなかったが、本作では打って変わりシュリ、ネイモアに次ぐ主役級の活躍を見せる。

ラモンダはティ・チャラに代わり王座に就くが、その外交姿勢は自国以外を見下したいかにもかつてのワカンダらしいもので、ティ・チャラの開国宣言を引き継げてはいない。そもそも彼女はあのティ・チャカ王の妻でもろに旧時代の人物なので、ワカンダ至上主義者でも不自然はない。前作でもジャバリ族への偏見は一際強かったし。その上でシュリにとっては優しい母親であるという二面性もいい。

同じくワカンダ至上主義者のオコエを罷免するシーンはアンジェラ・バセットの演技が素晴らしい。シュリが序盤で吐露するのと同じやり場のない怒りをラモンダも抱えていたということで、それが噴出したいわば八つ当たりだと思う。結構理不尽だが、指摘されてるミス自体はオコエに非があるものなので処罰すること自体は妥当だとも思う。

家族を愛するラモンダと王国自体への忠誠を貫こうとしたオコエの間の溝を描いて、ワカンダの旧態依然とした君主制の破綻を描き、ワカンダ至上主義を否定する意図もあるのかも。

彼女が娘に似た他人のリリを救って命を落とすシーンは、亡き息子の気高さを彷彿とさせる一方、かなりひっかかる、のがある。彼女の死がティ・チャラの死よりも軽く扱わるのは避けられず、物語を進めたい作り手の都合に殺されてる感が否めない。これは『ラブ・アンド・サンダー』にもあった問題点で、家族全員と母星、国民の半分を失ったソーが成長するために、恋人のジェーンがわざわざ死ななければならなかった。

キャラクターが可哀そうな反面、死の重みはどんどん薄れていくから、品のない言い方になるがコスパが悪い。わざわざ同種の悲劇を繰り返すのは作品を単体で完結させたい意図なのかはわからんが、連続性というユニバースの利点を殺してしまってはいないか?

ナキア

前作における彼女の視点はキルモンガ―の父ウンジョブとほぼ同じもので、キルモンガ―と同様ティ・チャラの開国宣言に影響を与えている。その彼女が不在であれば、ティ・チャラ亡きワカンダの改革が滞るのは頷ける。隠し子が出るのもまあ、王の補佐官として彼を支えるのではなく、妻として彼を愛したかったということでいいだろう。

ただその子供に王位を継承させようというのは、いくら何でも都合がよすぎやしませんか…?カリスマの不在とその代替不可能性を描き続けたこの作品のすべてが茶番に見えてしまいかねない、蛇足も蛇足のワンシーンだと思う。

ただ実のところ、観ている間はそんなに気にならなかった。直前のシーンの美しさで満足したのもあるが、今年のMCU映画のポストクレジットシーンがどれも酷かったために、本編と切り離してみる習慣が出来ていたのが大きい。

オコエ

そんなにストーリー上大きな役割はないけど、相変わらずカッコいい。だからこそファンとして言わせてもらう。ミッドナイトエンジェルは許しがたい。

自分はマーベルヒーローが俳優の顔を見せたいがためにマスクを外しがちなことに不満があって、むしろ素顔のまま超個性的なオコエ好きだった。それなのにあってもなくてもいいマスクとスーツを着けてしまって、闘い方までもがアイアンマンや宇宙人と区別のない陳腐なものになってしまった。

邪推だけれど、ラモンダと並ぶワカンダ至上主義者の彼女が今後の展開に邪魔だったから扱いが悪いのでは。シュリがワカンダを改革するとしたら、ワカンダの伝統を文字通り体現する彼女アイデンティティを破壊しておいた方が都合が良い。にしたってあんまりだと思うが。

ネイモア

ヴィブラニウムの影響を受けた草を食べ深海で活動できるようになったタロカン人の中でも特異なミュータントであるネイモア。地上で呼吸をし空を飛び、老化が遅いことを以て彼が同胞から神として崇められているのが良かった。光ったりビームを出したりと荒唐無稽なことをしなくとも、わかりやすく自分たちに出来ないことをやる奴は自分たちより優れた存在だと思うのはすごく自然だと思う。

映画X-MENの知識くらいしかないが、マーベル世界で差別を受けているミュータントというアイデンティティが、逆に崇拝の対象になっているのも興味深い。それはそれで差別だしな。

よそ者に冷徹で芯のある専制君主としての側面と、シュリの王族としての重圧に同情する感情的な個人としての側面を併せ持つ二面性も順当に魅力的。

彼というよりタロカンに対しての疑問点になるけど、武器防具以外のどこにヴィブラニウムを使っているんだろう。アクアマンと差別化したいのはわかるけど、ワカンダほどに科学力を強調していないから彼らがどう強いのかよくわからん。音波攻撃とか水爆弾はどうやって作るんだろう。万能金属ヴィブラニウムとアステカ文明風の自然と一体型の親和性はいまいち高くなかったと思う。

まとめ

本作が時間をかけて描いている、カリスマを喪った人々のやり場のない感情は、俳優たちの迫真の演技もあって、私がこの作品に個人的な思い入れを持つのに十分なものだった。だからこそ戦いの決着やポストクレジットシーンには思うことがたくさんあるし、他にもいろいろ散らかっていて完璧とは言い難い作品でもある。

ヒーロー映画として、MCUとして、追悼作品として等、様々なハードルがあっただろう中で全力を尽くして世に送り出された作品だと思うので、観られてよかった。

『仮面ライダーBLACK SUN』感想:暴力は悪か正義か

今回はAmazon Prime Videoにて10月28日(金)から配信されている『仮面ライダーBLACK  SUN』の感想。冬のブラックヒーロー祭り(勝手に呼んでるだけ)第一弾である。

私はクウガからの平成ライダー世代でその時代には思い入れもあるのだが、エグゼイド以降は合わなくて今はたまに見る程度だ。本作を観たのは仮面ライダーシリーズよりも、『凶悪』(2013)、『孤狼の血シリーズ』(2018~2021)ですっかり虜になっていた白石和彌監督の名前に惹かれた部分が大きい。

正直引っかかるところはたくさんあるのだが、せっかく観るなら楽しみたいと思って、そういうところにはなるだけ眼を瞑ってみることにした。そうすると自分なりの楽しみ方も見えてきた。

そんなわけで公平ではないかもしれないが、自分なりにこの作品の魅力と問題点を書き連ねていきたい。当然ネタバレ全開なのでご注意を。

概要

まずこの作品全体を観た時、特定部分の細部の作り込みには目を見張るものがある。一方で、その裏にある思惑や真相が深く描かれることはほとんどない。この作品はキャラクターの行動や事件を積み重ねるだけで、初めからそこまで説明をするつもりが無かったんだと思う。これだけならまだいい。そういう描き方はありだと思う。

問題は、「大人向け」という売り文句に始まり、現実の社会問題をモチーフとして(それかなりの実在感を持って)取り入れたことや、そもそも「仮面ライダー」であることなど、とにかく何かしらの期待を煽る要素が多く、深堀をしない作りとの乖離が大きかったことだと私は考えている。

そしてそれに加え、原作である「仮面ライダーBLACK」へのオマージュが優先されすぎたことがノイズになり、作品の向かう先が非常にわかりづらい

それでは、より詳細な感想に入っていこう。

外面の印象

身も蓋もない話だが、監督や俳優が日本を代表する一線級の方々ばかりなので映像や演技の色気はニチアサでは到底お目にかかれないものがある。それだけで「仮面ライダー」としては見る価値があるのではないかと思えるほどだ。

俳優陣の演技は外してる人が一人もおらず、特にコウモリを始めとした他愛もない掛け合いが秀逸で、愛嬌たっぷりのキャラクターばかりである。

特撮パートに関しては、隠そうともしない着ぐるみ感とブレ多めの臨場感優先の撮り方がチープに感じられ、ドラマパートと乖離しているように感じた。暴力描写との相性はいいんだけどね、喧嘩を隣で見ている感じで。単にゴアなだけでなく、殴られた側が本当に痛そうな見せ方は仮面ライダーとしては斬新だった。

怪人のデザインは元となった生物の意匠を強く残していて割と好き。殿様飛蝗怪人は漫画版BLACKを意識しており、恐ろし気でかっこいい。あと創世王の登場シーンは思わず声が出た。そこまでに登場した怪人は限りなく人間っぽかったので、いきなり現実離れした怪物が現れて驚いた。大きさも視界に収まる程度で丁度良く怖い。

音楽に関して、曲自体は悪くはないんだが使い方がかなり残念。かっこいいシーン、泣けるシーンで同じテーマが何度もかかるので白けてしまう。ラストシーンで流れるメインテーマがあの展開を賛美しているように見えるのが顕著だが、作劇上の意図を考えると誤解を招きかねないようなちぐはぐな使われ方をしていることも少なくない。

怪人差別

今作の怪人差別描写が現実の差別をモチーフにしているのは明らかだ。社会問題に不勉強な筆者でも連想できるほどに、これらの描写はリアリティに満ちている。

デモシーンやは日本における在日朝鮮人差別そのものだし、来店お断りや裏通りでのリンチは黒人差別を連想させる。1972年篇で差別反対を訴えていた「五流護六」のモデルは学生運動だろう。

多くの人が抱くであろう感想と同様に、根本の異なる問題を混ぜ合わせてしまっているため、差別される怪人の立場がちぐはぐなものになってしまっていると感じた。

しかも人為的に作られたという怪人の出自を鑑みるに現実の差別とは質が全然異なるはずで、モチーフとして取り入れたのは安直と言わざるを得ない。

後述の政治描写にも言えることだが、異様にディティールが凝っていてリアリティがあるのがまずくて、この作品は現実の差別問題を取り上げたいんだな、と思ってしまう。しかしこの作品はそれに向き合うことはない。

かといって怪人差別描写自体が無意味な訳ではなく、作品世界に満ちる暴力の中でも、誰の意識にも潜む最も一般的で最も無自覚な暴力として差別を取り入れたのだと私は思っている。それにしたってデリカシーに欠けるのは否めないが。現実の事件を題材にした作品を得意とする監督の手癖が悪い方向に転んでしまったか。

加えてこの「差別」という話題が仮面ライダー、特に平成ライダーシリーズの文脈から見てもセンセーショナルで、必要以上にハードルが上がった面もある。

私が知る限りでも『アギト』におけるアギトや『ファイズ』におけるオルフェノク、それ以外にも人間が変化した別の生物へ向けられる恐怖や嫌悪、そして彼らとの共存の可能性を描いている作品がいくつかある。その一方で、基本的に彼らは知られざる存在として描かれてきたので、本作の怪人は既に社会に浸透している点で異なるアプローチの可能性はあったはずだった。

余りに似すぎている政治家

政治についても差別描写と同様、変にディティールが凝っていて困る。具体的には、堂波総理と幹事長が特定人物に似すぎている

持って回った歯切れの悪い喋り方とか、笑い方とかパワハラのやり口とか「いるいるこういう人」感がまたもや異様に高い。

彼個人の人物像はボンボンの2世悪役のテンプレートを当てはめただけで、流石に似せる意図はないと信じたい…。1972年篇での堂波(孫)の「俺は総理の孫だ」発言は彼の人物像を一言で表していて巧いなと思う。

最後に殺害されるのも、悪の親玉が言い逃れできてしまいそうだから殺すしかないというだけで大した政治的意図はないんだと思う。(まさかあんな事件が現実で起こるとは予想のしようもないし。)

青春の学生運動

数々のモチーフの中でも一際図に当たっていると感じたのが学生運動だ。これは政治や差別といった現在の問題に対し、学生運動は下火になった過去の事件として見ることができるからというのも大きいが、事件そのものよりもその渦中にいた人物の心情や動向に専念しているからだ。

大義を掲げてはいるが、女に釣られたやつ、威張っているが能力の無いやつ、暴れたいだけのやつと、組織の人員は充実しておらず一枚岩とは言い難い

2022年篇で大敗北を喫するように、彼らの行う「軍事訓練」も軍隊はおろかSWATにすら太刀打ちできないお粗末なもので、対峙する相手の戦力という現実が見えていない。

活動の目的よりも活動から得られる自己満足と友達を得るための組織、要するにサークルだと。このサークル五流護六に所属している人間の、それぞれ人間臭い生き方がもうたまらなく魅力的である。

サークルを取りまとめるカリスマ、ゆかりはいかにもなサークルクラッシャーで、光太郎と信彦は彼女に惹かれ大した思想もなく五流護六に加入する。妙に超善的な物言いから、なんとも言えない顔立ちに体型が出るセクシーな服装と、男を狂わせる要素満載である。光太郎と信彦、そしてオリバーが彼女の思想を受け継いでその後の人生を生きる一方で、彼女が堂波のスパイだったのか、真相は視聴者には最後まで明らかにされないのがいい。

五流護六の中心人物である後の三神官が、権力を得た途端に高圧的になるとか最高よね。怪人のためを思っているようでちゃっかり自身の保身を図るさまがもう…。そのくせ2022年篇ではそれぞれが怪人の立場を憂いていたと宣う手前勝手さが本当に人間臭い。

そして誰よりもビルゲニア、彼はこの運動を象徴している人物といっていい。強い怒りを抱えていてて一見毅然としているが、その実確たる思想も統率力もない、暴力を振るうしか能のない嫌われ者である。怨敵であるはずの堂波にさえ尻尾を振るその空虚さと行き過ぎた残虐性はどうしようもない一方、彼自身暴力の渦中で最期を迎える様は悲哀を感じさせる。

こういった人間の矮小さ故の愛らしさを描くのは白石監督の得意中の得意で、その舞台として学生運動のモチーフはこの上なく適していた。私にとってこの物語は、借り物の思想に振り回されたり、激しい怒りに突き動かされたりするかつての若者たちの悲しく滑稽な群像劇として楽しむことができた。

怪人って、なに?

この作品における怪人の設定はかなり煩雑で、練り込みは十分とは思えない。先述の通り社会的な立場が不明瞭なのはもとより、作中に登場する怪人関係のアイテムの役割が整理されているとは言い難く、要素が多い割にはドラマにはほとんど活かされない。

ヒートヘブンについては、怪人の老化を防ぐ効用と依存性があるような描写がある。しかし、禁断症状に苦しむ人物が現れるわけでもないので、依存性は政府による怪人の懐柔を成立させるための舞台装置に過ぎない

また、ヘブンは人肉と創世王のエキスを混ぜて作られるわけだが、創世王のエキスを用いて改造された怪人とはどう違うのか、あるいは怪人の肉と創世王のエキスを混ぜたらヘブンができるのか、などへの言及もない。人間を食う怪人同族を餌にして怪人を飼いならす人間の対比構造を作るだけの、これも設定どまりである。ドラマに組み込めれば結構魅力的な設定だとは思うんだが…

(余談ではあるが、怪人が人肉食に依存するという点では仮面ライダーアマゾンズを連想する人もいるだろう。しかし私はそれ以上に真・女神転生4を思い出した。悪魔が跋扈する異界と化した東京において、「阿修羅会」というヤクザ組織は悪魔と取引をして力を伸ばしており、取引材料となる悪魔の大好物「赤玉」は人間の脳髄から作り出されている。流石に偶然だとは思うがそっくりではないか。)

もう一つ気になるのが、ストーン及びベルトである。人間が怪人に改造される際には、腹部にストーンを埋め込まれる。ブラックサンとシャドームーンに埋め込まれたものはキングストーンと呼ばれ、二つ揃えれば次の創世王が生まれる点は元ネタの『仮面ライダーBLACK』と同じである。違うのは、上記のように怪人一般が持っていることと、取り出しても怪人には特に影響がないことだ。命に別状がないどころか大して痛くもなさそうだし、変身も問題なく行える。なのでキングストーンの争奪戦は光太郎と信彦の身体を離れて行われるため、元ネタのどちらかが死ぬまで終わらない闘いの宿命がない。そのため、光太郎と信彦の対立構造だけはトレースしているものの、殺し合いになる程の動機がないように見えて乗り切れない。

そしてベルトの存在。元ネタの場合ベルトを持っているのは二人の世紀王だけで、本作も最終話前半までは同様なのだが、葵の変身がすべてをひっくり返す。

光太郎と信彦の変身に関してベルト、変身ポーズ、完全体の3要素に着目してみると、彼らは不完全体の頃からベルトを発現させており、完全体になって以後変身ポーズをとるようになる。なのでベルトは彼ら二人だけが持つもので、完全体と変身ポーズが演出的に連動しているのだと思った。

ところが葵は、それまでベルトを持っていなかったにも関わらず変身ポーズをとっただけでベルトが出現し、それでいて変身後の姿はベルトがない頃と違いがない。つまり、変身ポーズとベルトの存在が連動しており、完全体は(今のところ)存在しないということになる。

回りくどくなってしまったが、作品全体で見た場合上記の3要素は全く連動しておらず独立である、要するに気分次第のかっこいいだけの要素だということだ。仮面ライダーシリーズのお約束で言うなら連動している方が自然だし、独立させる演出的意図も見いだせない。そのくせ途中まではお約束に沿っているようで後半で覆される、というのは非常に乗りづらい。この作品全体的にこういうところがあるよなあ…

誰しもが秘める暴力性

この作品の軸といえるものがあるとすればそれは「暴力」だと私は考えている。ここでいう暴力は、取り合えず「人の尊厳を傷つける行為」だと定義しておく。

本作ではあらゆる形の暴力が描かれる。犯罪映画を得意とする白石監督の本領発揮といえる、生々しく痛々しい暴力描写がてんこ盛りだ。身体への暴力、精神への暴力、更に人が無自覚に秘める暴力性も描いている。

特に印象に残っているのは、1972年篇の五流護六メンバーによる誘拐した総理の孫・堂波真一への仕打ちだ。中でも真一がトイレに行けず漏らしてしまった際の彼らの嘲笑。相手が悪いやつだから侮辱してもいい、という心理からの行動であろうがこれはいじめの構造によく似ている。侮辱の内容がしょうもないのも、相手が感じる屈辱の重大さをいじめている側が軽視するところもいじめっぽい。これをやっているのが主人公側だというのが肝で、正義感のある人物にも秘められた、無自覚な暴力性を描きたいのではないか。

暴力を振るわれても他者が守ってくれるのにも限度があり、最終的には自分自身が同じ暴力を以て抗うしかない。誰しもが暴力を振るう側に立っており、純粋な被害者といえる人物はいないといっていい。そのような世界で暴力を以て他者を守ろうとし、守り切れない「仮面ライダー」を描くことは意義のあることだったと私は思う。

その結論であるところのエンディングにはかなり思うところはあるが。

やられっぱなしであまりに多くのものを失った葵が、攻めることと守ることをイコールで考えるようになるのは納得できる。露悪的ではあるが、適当な免罪符で主人公側だけが暴力を肯定されるような結末よりはフェアだと思う。

葵自身、差別主義者に対する暴言やビルゲニアへの殺害予告など、敵と見た相手には攻撃的な態度を取る、融和よりむしろ闘いを好む性格ではあるし。彼女の怪人態が両手が凶器のカマキリであったり、最終的な彼女の姿が「ベルトを巻いて変身ポーズをとる怪人」というのも考えさせられる。ヒーローとしての博愛精神と怪人としての暴力性を両立しているということなのかも。

その一方で、暴力を嫌なものとして描く作品であれば、やはり暴力に頼らない結論を出してほしかったというのが本音である。葵は光太郎からは優しさと戦い方を受け継ぎ、信彦と同じ怒りとカリスマ性を持っている。しかし、二人の仮面ライダーから受け継ぐものはあれど、次のステップに進めることは出来なかったというのはなんともやるせない。

一応、光太郎は葵に戦い方を教える際に「拳銃でも買った方が早い」といって戦闘訓練の意義を否定している。また、信彦の指揮した突入作戦はほぼ全滅の大失敗で、実戦性を欠いた格闘訓練と手作り爆弾によるテロ行為は無力なものとして描かれる。つまりラストの少年兵育成はこれっぽっちも「正解」ではない。何もしないよりまし、程度の絶望的な抵抗だろう。

まとめ

キャラクターの実在感や現実の事件の再現など表層的なディティールの作り込みや映像の力強さには目を見張るものがある一方、設定の練り込みや背景の掘り下げに関しては不十分でアンバランスな作品である。監督の得意とする暴力描写は仮面ライダー史においては一定の価値があるものだと思う。ニチアサでは描けないような救いのない終わりも嫌いではない。

満足とは言い難いが好きな場面もあるので、惚れた弱みということで可能な限り楽しんだつもりだ。

『機動戦士ガンダム 水星の魔女 PROLOGUE』感想

今回は『機動戦士ガンダム 水星の魔女 PROLOGUE』(以下、プロローグ)のネタバレ感想。

ここ最近ガンダムは「閃光のハサウェイ」を観たくらいであんまり追いかけてなかったんだけど、これが面白かった。

前日譚として押さえるべき所と、単体としての面白さを24分間に手堅く盛り込んでおり、なかなか楽しめた。私の趣味にも合っていて、続く『機動戦士ガンダム 水星の魔女』(以下、本編)も追いかけようと思うくらいには気に入った。

 

以下ネタバレあり。

無駄のない構成

まず、物語として無駄がない。GUNDを巡る対立とサマヤ一家を中心とした研究所内の人間関係、そして起こる悲劇を手際よく描いている。山場となるモビルスーツ戦を盛り込みつつ、駆け足な印象もない。

そして、プロローグが30分枠で作られていること自体に私は好感を持っている。一つには、基本的に長いよりは短い作品が好きだからだ。もう一つには、毎週同じ時間に30分間の番組を観るというルーティンが私にとって心地よく、その形式を尊重してくれいているからだ。そう感じるのは私がニチアサやテレビアニメで育った故だ。プロローグ自体はテレビ放送ではなく、イベント上映や各種サービスでの配信で観られるのだが、敢えて本編と尺を揃えてリズムを作ってくれているのが嬉しい。

GUND

プロローグにおける事件の発端は身体機能拡張技術「GUND」を巡る対立である。

このGUNDは身体機能を拡張する一方で人体へ悪影響を及ぼすこともある。この二面性を描くにとどめ、GUNDの是非について安易な答えを用意しないことで物語に奥行きが出来ている。原子力問題そのまんまな気もするけど。

実質的な主人公のエルノラはGUNDの両方の面を味わうことになる。彼女はかつてGUNDの義手で生き永らえた恩からGUND-ARMに従事しており、劇中でも命の危機をルブリスに救われた。一方で、ルブリスを通して娘が人を殺してしまったことや、夫の直接の死因がGUNDの副作用であるため、これまでのように純粋にGUNDを信頼することも出来ないのではないか。本編でエルノラ、あるいは娘のエリクトがこの問題と向き合う時が楽しみだ。

ルブリス覚醒

本作のハイライトであるルブリスの戦闘シーンの中でも、特に秀逸なのがエルノラの表情。まだ4歳の娘のGUNDに呼応して起動したルブリスの自我にも似た未知の可能性への畏怖、そのルブリスが娘を戦場に導き、無自覚とはいえ人を殺めさせたことへの悔恨を、それぞれほんの数秒で表現しているのが素晴らしい。

音楽の使い方も巧みで、それまでずっと静かだったBGMに、ルブリスを起動させたのが娘だとエルノラが気付いた瞬間、ひときわ音量の大きなコーラスが入る。とんでもないことが起こった事が直感的に伝わり、その語の戦闘シーンとラストへの推進力として申し分ない。

まとめ

以上、良かった点、気になった点をまとめてみたが、短い時間でかなり楽しめるコスパの良い作品だと改めて思う。単体で一応完結してる分、毎週放送される本編よりも人に勧めやすいのも嬉しい。

この記事を執筆している段階で本編は第4話まで放送されているが、かなり楽しめている。プロローグのSF然とした雰囲気とは違うが、テンポが良い所は変わっておらず見やすい。そっちの方も数話ずつまとめて感想を書いていきたい。

『スプラトゥーン3』レビュー:バンカラ街というテーマパーク

概要

今回は9月9日に任天堂から発売されたNintendo Switch用ゲームソフト『スプラトゥーン3』をレビューする。前作『スプラトゥーン2』から5年ぶりの新作である本作は、筆者にとって何度でも訪れたいテーマパークのような存在になった。

遊びやすくなったガチマッチ

前作から「バンカラマッチ」へと名を変えたガチマッチには、新ルールの追加はなく試合内容にほとんど変化がない。一方、周辺システムには数多くの新しい仕様が追加され、格段に遊びやすくなっている。

ウデマエが数値で表示されるようになり、昇格までに必要なポイントが正確にわかるようになった。そして、保持ポイントが減って昇格ラインを下回ってもウデマエが下がらなくなり、同シーズン内で到達した最高ウデマエが自動的に維持されるようになった。

また、試合終了後に表彰が与えられる。この表彰は個人の試合への貢献度を踏まえて与えられ、貰った数、種類によってウデマエポイントが加算される。

他にも、待ち時間中の試し打ちが可能になり、ゲーム内で試合を動画として保存・共有する「バトルレコード」の機能が追加されるなど、練習や復習がしやすくなっている。

全体として、チームの勝敗だけでなく個人の貢献や向上心も尊重しており、向上のための便利な環境づくりとストレスの軽減を意識していることがわかる。

旧作のいいとこどりのヒーローモード

一人用モードの「ヒーローモード」は、旧作のヒーローモードと前作の有料DLC「オクト・エキスパンション」の要素を合わせたものとなっている。

マップを移動、探索してステージに侵入する形式はヒーローモードを踏襲している。また、登場キャラクターもカラストンビ部隊の面々が続投している。

一方、ステージ選択後に使用武器を選択する、挑戦するためにポイント(イクラ)が必要になるステージがあるなど、ステージ内の仕様はオクト・エキスパンションと同じものである。単なるオクタリアンとのナワバリ争いにとどまらない、壮大な秘密を巡るストーリーもオクト・エキスパンションに近い。

また、こちらのモードもカジュアルプレイとやり込み双方への配慮が尽くされている。

今作ではフィールドマップが有害な「ケバインク」に覆われており、ステージをクリアすると入手できる「イクラ」を消費してケバインクを消し、次のステージや次のエリアへの入り口を開放していく。これによりすべてのステージをクリアせずとも次のエリアに進むことができ、エンディングだけを目指すのであればそこまで時間はかからない。更に、前作まではステージ内に隠されていた「ミステリーファイル」が今作ではフィールドマップに隠されており、ファイルのためだけに繰り返しステージに挑戦する必要がなくなった。

一方で、ステージの中にはかなり高難度のものもあり、探索要素も豊富なのでやりこもうと思うとかなりのボリュームがある。

バトル以外の遊びの増加

バトル以外の遊びやコレクション要素も充実している。

ナワバトラー対戦画面。塗りつぶすマスの範囲が異なるカードを使い分ける。

バンカラ街の裏通りにある広場では「陣取大戦ナワバトラー」というカードゲームで遊ぶことができる。自軍のカードに隣接する形でカードを配置していき、最終的により多くのマスを塗りつぶした方が勝つ、名前の通りの陣取りゲームである。

プレイヤーが装備する「ギア」についても新要素が追加されている。

バトル中に様々な効果を発揮するギアパワーについて、前作までは付け替えられるのはサブのギアパワーだけだったが、今作ではメインの付け替えも可能だ。これによって、自分のファッションセンスとプレイスタイルをより妥協無く両立できる。

扉だけで個性が際立つロッカーたち。

また、ロビーの一角にあるロッカールームでは、自分のロッカーをカスタマイズして他のプレイヤーに公開することができる。ロッカー内にはブキやギアだけでなく、街にあるザッカ屋で購入したオキモノやステッカーも自由に飾ることができる。ロッカーはギアとも違いバトルに一切影響を与えないので、自分の個性を全開にして見せびらかすのが楽しい。

バンカラ街の魅力

フェス中のバンカラ街。電光掲示板が眩しい。

本作のバトルは前作までの楽しさをそのままに、より少ないストレスでより向上心を持ってプレイできるような環境が整えられている。しかし本作が何よりも筆者を魅了した点はそこではない。それは、バンカラ街が体現するイカたちの文化とそこへの没入体験である。

前作のハイカラスクエアは、スプラトゥーンらしい派手で可愛らしいデザインが魅力的な半面、広場の取り囲むように店やロビーの入り口が配置されたハブとしての機能が優先された構造だった。

バンカラ街は違う。前項で述べたようにバトルとは関係のない豊富な遊びが用意されている。それだけでなく、急速に発展中という設定にふさわしく、空間的な余白が非常に多く無計画な開発の跡が見て取れる。ゴミもそこら中に捨てられている。

この街の退廃した有様が、享楽的なイカたちの文化の発露として私にはとてもしっくりきた。

また、ロビーの変化も見逃せない。前作はロビーの入り口に入るとロビーメニュー画面に移動し、試し撃ち場はどこにあるかもわからず出入り口もない異空間だった。

今作のロビーは、ロビーメニューを開くポッドと多機能ディスプレイ、試し撃ち場に売店、さらにはガチャガチャやロビーといったバトルと無関係な施設、挙句の果てには何の機能もないカフェやDJルームまで備えた複合施設になっている。わざわざ歩いて移動してこれらの設備を利用する体験は、メニュー画面から選択するだけでは得られない没入感をもたらしてくれた。

バンカラ街はスプラトゥーンらしいポップなデザインだけでなく、空間的な余白や移動の煩雑さといった機能性とは相反する要素を効果的に取り入れることで、よりイカらしい享楽的な空気を醸成し余すところなく味わわせてくれる、テーマパークのような場所である。

総評

以上、スプラトゥーン3はシリーズのゲーム性の中核をなすバトルの楽しさを損なうことなく遊びやすいように最大限の工夫が凝らされている。それだけでなく、単に機能性を追求するのではなく、あえて余白や煩雑さを取り入れたバンカラ街はこれまでにない没入感を提供してくれる。

 

実は筆者は昔、対戦ゲームに苦手意識があった。それでもスプラトゥーンの世界観にはとても惹かれるものがあったので、友人が始めたのをきっかけに自身もスプラ2を購入した。結局は対戦ゲームの楽しさも腹立たしさも知り、今ではやめられなくなってしまった。今作スプラ3は、筆者がスプラを始める前に求めていたものと始めた後知った楽しみを両立した夢のような作品だといえる。リアタイできてよかった。

9/13 Nintendo Direct 感想

9月13日(火)にNintendo Directが放送された。

相変わらず紹介されるソフトの本数が多すぎるわ、「見境ない」という言葉が口を突いて出るほどに新作・移植問わずメーカーの幅が広すぎるわ、嬉しい悲鳴が出るとはこのことである。

観終わったころには途中で観た内容を忘れるほどのボリュームなので、備忘録もかねて特に気になったタイトルを、発売日と合わせて記事としてまとめた。

 

 

・『TUNIC』

友人に以前紹介されて気になっていたタイトルがSwitchに来てしまった。

このゲームの興味深い点は、ゲーム内説明書が架空の文字で書かれており冒険を進めて解読する必要があるという点だ。何もわからないままに謎の島に放り出された主人公の狐と同じ気持ちを味わえるようでワクワクする。

説明書を解読すること自体を遊びとして取り入れている点にも惹かれる。UIそれ自体がゲームの世界観を表現していたり、ゲームの楽しみの一部で会ったりするゲームも好みなので。

 

 

・『オクトパストラベラーⅡ』

前作『オクトパストラベラー』は未プレイだが、トレーラーを見比べてるだけでも前作よりも画面が断然魅力的に思われた。

理由としてはまず、カメラが移動し斜めからの視点が入ることによりHD2Dで表現された魅力的な街並みがより立体感を持って映されていることが挙げられる。被写体の建造物も前作のグリッドに沿ったような配置と比べて、より生活感ある不規則な配置になり、大きな建物も多い。

 

記憶がないという過酷な状況に屈することなく人命救助を行う女傑。

キャラクターも頭身が上がり手足が長くなったことで、より細やかかつダイナミックに動いており、ドット絵の美しさを最大限に活かしている。

 

 

・『超探偵事件簿 レインコード』

2023年春発売。

小高和剛×高田雅史×小松崎類という、ダンガンロンパシリーズと同様の布陣の新作。

ここまで癖の強い3人が揃っていると正直ダンガンロンパにしか見えないのだが、クローズドサークルや学級裁判といった形式や「希望と絶望」をテーマにしたストーリーから脱却するだけでもかなり違うものになるのでは、とも思う。

複雑なトリックや飛び交う疑念など、ダンガンロンパ時代から小高和剛が者に構えつつもミステリへのこだわりは強いことは感じられたので、オカルト探偵ものというのも楽しみだ。

小松崎類の独特のデフォルメを忠実に再現した3Ⅾモデルはかなり見応えがあるが、画面の癖が強すぎて酔いそうになった。今思えば『絶対絶望少女』はスピンオフ作品なりの抑制が効いていたのかもしれない。

 

 

・『Sifu』

2022年11月9日(水)発売。

敗北するたびに老化する本格カンフーアクションゲームがSwitchに。

発売前から注目していたもののSwitchとラップトップしか持たない筆者は、いつかゲーミングPCかPS4買ってやるんだ…と思っていた。

また一つPS4買う理由が減ってしまった。

 

・『結合男子』

2023年発売。

乙女ゲームもBLも普段あまり触れないのだが、アイデアに惹かれた形になる。

(以下は個人の見解で、見苦しい表現もあるので白文字にして伏せておきます。性的な記述を不快に思われる方は飛ばしていただけると助かります。)

男性器のメタファーとして刀剣を擬人化した『刀剣乱舞』に対し、元素の結合を性交に見立てるのは秀逸なアイデアだ。

生物学的には不自然な形でしか結合することのできない人間の男性たちに対し、化学的な「結合」はより自然な交わり方として彼らの関係をより救いのあるものにしてくれるのではないか、という期待もある。(この点については、不自然さから生じる背徳感を打ち消してしまうとも考えられる。)

元素でイメージされるのは属性程度のものなので、良くも悪くも作家の創造性が強く出る。スマホゲームなどと違いイラストレーターが単独でデザインに統一感があるのはよい。

 

 

・『ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム』

2023年5月12日(金)発売。

言わずと知れた『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』の続編が、延期を経てついに発売日が発表された。

最初のPVでも空が強調されていたが、今回はさらに雲の中にダイブするリンクと飛行機のような謎のアイテムが映り、空を舞台にしたアクションがさらに充実するようだ。

wild(野性)に対するkingdom(王国)ということで、自然を強調した前作に対し、より遺跡などの建造物を舞台にしたギミック重視の、つまり従来の3Ⅾゼルダに回帰した作品になるのではないかと筆者は予想している。

 

・まとめ

ここに挙げたのは個人的にプレイしたいと思うタイトルを厳選したもので、これら以外でもFEシリーズ新作の『ファイアーエムブレム エンゲージ』やバイオハザードシリーズの移植など注目すべきものは多い。しかも既に発売している『スプラトゥーン3』のフェス情報や発売日の決まっている『ベヨネッタ3』の情報などは興味があっても省いているので、本当に情報が多い、多すぎる。2022年だけでも溢れるほど好きなゲームが出ることはわかっていたが、2023年もそれが続きそうで何よりだ。

『蒼き雷霆ガンヴォルト鎖環』レビュー:間口は広く奥は深い、まさに『ガンヴォルト』の完成形

概要

今回は7月28日にインティ・クリエイツからNintendo Switchで発売された『蒼き雷霆ガンヴォルト鎖環』の感想を書いていく。(8月2日にはXBox OneXBox Series X|S版が発売されており、今冬にはSteam版が発売する予定。)

2014年にNintendo 3DSでダウンロード限定で販売された『蒼き雷霆ガンヴォルト』に始まるガンヴォルトシリーズの3作目であり、スピンオフの白き鋼鉄のXシリーズ2作品を含めると通算5作目となる今作は、シリーズで培われたハイスピードアクションのノウハウを最大限に活かし、さらに発展させた最高の体験を提供する、まさに集大成といえるものだ。

新しい時代

舞台は前作から数十年が経過した世界で、世界で唯一の第七波動を封印する「鎖環(ギブス)」の能力者「きりん」と、前作までの主人公であり第七波動を超えた進化を遂げてしまった「ガンヴォルト」(以下GV)の二人が主人公である。

前半はGVと同様に第七波動が暴走し「暴龍」と化した能力者たち、後半は今作のキーアイテム「封鍵」を狙う「ZEDΩ.」率いる武装組織「ATEMS」との闘いが描かれる。

今や過去の人間となったGVが、きりんを始めとした新世代の人々や、かつてのGVや紫電を彷彿とさせるZEDΩ. との邂逅を経て何を思い、どう変化するかが注目ポイントだ。

肩を並べて戦う仲間を得て新主人公のきりんをサポートする本作のGVは、守るべき存在であるシアンやオウカのために孤軍奮闘していた過去と対照的で、見方によっては過去作のGVの行動に否定的とも捉えられる点は賛否が分かれる所だろう。

しかし、常に悲劇に終わったGVの物語が既に過去となり、彼を特別な人物としてではなくごく普通の個人として扱う新しい世界こそが彼の救いとなるという話は現代的で、少なくとも筆者には納得のいくものだった。

 

より鮮やかになって帰ってきた『ガンヴォルト』

クリスマスの街。こんなに楽し気な場所がガンヴォルト世界にあったとは。

インティ・クリエイツらしい精緻で美しいドット絵は、今まで以上にキャラクターの動作を時に可愛らしく、時にかっこよく捉えている。特にステージは工場や施設内部などの殺風景な場所だけではなく、「クリスマスの街」や遊興施設である「電脳九龍城」など文化が垣間見えるステージがきらびやかに描かれているのが嬉しい(主人公がお尋ね者ではなくなり、隠密行動をする必要がなくなった恩恵か)。

フルボイスで読み上げられるライブノベルは視覚的にも聴覚的にもうるさい。

また白き鋼鉄のXでは省略されたライブノベルはもちろん、ミッション冒頭のフレーバーテキスト、ロード画面での設定資料も復活しており、ガンヴォルトらしさ全開である。

CotMへのアンサーの形だが、共演を見れる日は来るのだろうか…。

トークルームでは仕事の合間の他愛もない雑談から、GVによる過去作ネタへの言及まで様々なやり取りが過去最多の登場人物によって交わされる。中には、インティ・クリエイツの他シリーズや他社作品のパロディまで盛り込まれた会話もあり、思わず笑ってしまう。

シリーズ最光速のアクション

本作の主人公の一人「きりん」は錫杖型の仕込み刀を携えた近接格闘キャラクターで、プレイヤーは基本的に彼女をメインに操作してゲームを進めることになる。

彼女の格闘能力については、基本となる地上三段斬りや空中斬りのほかに、ゲームを進めてボスを倒せば新たなアクションを習得でき、多彩な剣技を繰り出せる。

彼女のもう一つの武器が護符であり、これを敵に当ててダメージを蓄積する「護符撃封ち(デバフウチ)」を使うことができ、剣でその敵を攻撃したときはじめてダメージとして発生する。こちらもボスを倒すことによりチャージショットなどの新技を習得できる。

演出もド派手で爽快な雷霆煉鎖。

そして、護符と剣を組み合わせた「雷霆煉鎖(ライテイレンサ)」が、本作のゲーム性の大部分を担う重要なアクションである。これは護符を投げつけた敵やオブジェクトの近くに瞬時に移動し攻撃を加えるというもの。ロックオン→攻撃というガンヴォルトシリーズらしいシンプルな挙動で、射撃武器でロックオンする点はガンヴォルト、移動を伴う点はアキュラ、という風にこれまでの主人公の特徴を併せ持っている。雷霆煉鎖の後は落下速度が遅くなり、1度だけ空中ジャンプができる。さらに雷霆煉鎖を使う際に左スティックを入力することで敵の左右どちら側に移動するかを選択できる。これらを利用して位置調整をして次の敵に護符を命中させれば、再度雷霆煉鎖を使うことができる。後述するChainボーナスのこともあり、基本的にこの雷霆煉鎖を繰り返し敵から敵へと飛び移るように撃破していくのがこのゲームの肝である。

複数ロックオンする「雷霆煉鎖-乱舞-(ミダレマイ)」の演出は画面を埋めんばかり。

この雷霆煉鎖は、護符撃封ちと雷霆煉鎖それぞれがワンボタンで繰り出せるシンプルさと、護符を当てさえすればいつでも敵の前に瞬間移動できるという便利さを兼ね備えており、ゲームに不慣れなうちからでも爽快感を味わうことができる。慣れてくれば複数ロックオンからの同時撃破したり、攻撃の回避に利用したり様々に応用できるのもゲームを進めるうえで成長を実感できて達成感がある。

熟練者のための奥深さも備えている。後述するChainボーナスのため、高スコアでクリアするためには可能な限り雷霆煉鎖を途切れさせずステージを進める必要があるが、今作のきりんはホバリングやブリッツダッシュの反射で滞空時間を延ばすことができない。一筋縄ではいかない地形や敵の配置もあり、コンボを繋ぎ続けるには正確な操作とステージ把握が要求される。また、後半に進めば雷霆煉鎖を利用しなければ回避できない攻撃を繰り出してくるボスもいる。

プレイヤーを助ける記憶の断片

ゲームを進めるのが困難に感じても心配することはない。このゲームはサポート要素も豊富に揃っており、自分のペースでの攻略を助けてくれる。

フレーバーテキストもパロディ満載。いいのか…?

GVの記憶を基にシリーズ作品のキャラクターをモチーフにしたイマージュパルスにはスキル型とパッシブ型の二種類が存在する。

スキル型は攻撃や回復の効果を持ちミッション中に使用できるもので、時間経過により再使用可能になる。

パッシブ型はミッション中常に効果を発揮し、体力やダメージを増加させるものから、ジャンプ回数を増やすなどプレイング自体を変化させるものまで多彩である。旧作でお馴染みの、残弾を消費してダメージを無効化する「電磁結界(カゲロウ)」を付与できるものも存在する。

スキル型は4個、パッシブ型はプレイヤーのレベルによって最大10個まで同時に装備することができ、どちらもミッション中にいつでも付け替えることができる。

イマージュパルスはステージにちりばめられた「イマージュジップ」を集めた数に応じて、ミッションをクリアする度に抽選で入手できる。上述の通りコレクション要素としての側面もあり、ミッションによって入手できるものが異なることから、クリア済みのステージを再度プレイする理由になる。

最強の第七波動能力者

旧作の主人公であり今作のもう一人の主人公であるガンヴォルトは、きりんの下にある鎖環ゲージが100%以上になると交代可能になる。交代後は鎖環ゲージがガンヴォルトの体力となり、0になるときりんに交代する。ゲージは時間経過でも減少し、後述するアクションを使用すると大きく減少するが、下ボタンを2回押し「コンセントレーション」の状態で待機することで消耗を抑えられる。

無限ジャンプ&ダッシュで敵の頭上を素通りすることさえ可能。

基本となるアクションは旧作通りダートを命中させた敵をロックオンしてからの放電攻撃。前述の電磁結界も使用可能。

さらに、きりんの雷霆煉鎖と同様にロックオンした敵に瞬間移動して攻撃を加える「ライトニングアサルト」に加え、アキュラを真似たという「スパークダッシュ」はダッシュ中にぶつかった敵をロックオンしダメージは受けず、ロックオンした敵にぶつかれば敵をすり抜け雷撃を浴びせるというものである。

そして大技「ヴォルティックバスター」は三重にロックオンした敵にダッシュでぶつかると発動する投げ技のようなもので、画面内にいる他の敵をも巻き添えにしながら大ダメージを与える。

機動力に関しても、無制限の空中ジャンプと空中ダッシュによってあらゆる障害を物ともせず隙がない。

暴走したGV。もはや敵の姿が見えないほどの大暴れ。

そしてきりんが敵にやられたときにランダムに発動する「暴走」状態では、より強化されたガンヴォルトを操作できるようになる。鎖環ゲージの制限もなく、画面内の敵を一度にロックオンできるようになり、ヴォるティックバスターは無傷のボスを一撃で葬るなど手が付けられないが、使い続ければデメリットも発生するようだ。

威信点と電子の謡精

ミッションの評価やモルフォの歌に関わる数値「クードス」に関する仕様も進化を遂げている。クードスは敵を撃破することによって蓄積されるが、特定の条件でボーナスがかかる。その中でも注目すべきはChainボーナスで、着地せずに連続で敵を撃破し続けるとクードスの獲得量に倍率がかかり、最大で4.0倍までになる。空中撃破などによって得られる加算方式のボーナスと比べ恩恵が段違いに大きく、これにより本作はシリーズでも圧倒的にクードス値の伸びが良くなっている。

ペナルティとしては本作独自の「クードスロック」という方式が採用されている。これは敵の攻撃に被弾するとクードスにロックがかかり、規定量のクードスを稼いでロックを解除するまではクードスが上昇しなくなるというものだ。クードス値をリセットする形のペナルティしか存在しなかった従来作に比べ、途中でミスをしてもプレイを継続するモチベーションが保ちやすくなった。反面、プレイヤーのクードス値が大きくなるほどロック解除に必要なクードスの規定量も多くなるので、緊張感もある。

またリトライマーカーに触れてもスコアには反映されるがクードスは清算されなくなった。尤もリトライする際にはリセットされてしまうのでデメリットがないわけではない。

本作の主題歌『彼の記憶(ヒノメモリア)』は、当初はLV2だけでしか聴けない。

クードスが1000を超えるときりんの傍らにモルフォが現れ、BGMがモルフォの歌に変わる。従来作ではダメージを受けたりリトライマーカーに触れたりなどしてクードスが清算されるとともにモルフォは消えてしまったが、上記のように今作ではクードスは清算されずモルフォの歌も途切れない。代わりに時限性になっており、1000クードスを稼ぐたびに時間制限はリセットされ、歌が中断されたとしてもこれまた1000クードスを稼ぐたび再び現れる。そして歌を途切れさせずにさらにクードスを一定値稼ぐとクードスLVが上昇し曲が切り替わるので、1回のプレイでも複数の楽曲を楽しむことが出来る。

総じて、旧作よりも易化したクードス関連の仕様やモルフォの歌を長く聴いていられるような工夫が施され、一つ一つのステージを楽しみながら最後までプレイしやすい環境が整えられていると感じた。

総評

ガンヴォルトらしい派手で厨二感全開の演出は健在で、シンプルな操作ながらも奥深いアクションは過去最高といえるスピードと爽快感に満ちた素晴らしいものである。快適なプレイを継続させるための環境づくりも行き届いており、初心者から熟練者まで多くの人に勧められる秀作である。