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『ゴジラ-1.0』感想:破壊神ゴジラの新たな雄姿

今回は遅ればせながら『ゴジラ-1.0』の感想。

正直この作品はあまり気が進まず先送りにしていたのだが、年末に『ゴジラ』(1954)を観たこともあり、正月休み最終日を利用して行った。

気が進まなかった理由としては、インターネットで見られる一部のファンによる過剰な持ち上げと、擁護派による(筆者から見れば至極真っ当な)批判への抑圧がとても嫌な感じだったから。鑑賞後の今でも、批判は妥当なものだったと思っている。

こうは言いつつも、全体的な感触としては結構楽しめた。普通に見て良かったと思える。これだけ迫力のある怪獣映画が日本で作られ、海外でも高い評価を得ているのは素直に嬉しいが、同時に見過ごせない問題も多々あると感じたのでこの記事で消化したいと思う。当然ネタバレ全開なのでご注意。

 

 

 

 

 

デカい・コワい・カッコいい、三拍子揃ったゴジラ

山崎貴が白組所属故に調整がしやすいのか、かなり大胆に近距離からゴジラを映しており、ゴジラの大きさが際立っていて良かった。またかなり良く動き、2014年のギャレス・エドワーズ版以来のCGゴジラの中でも最もCGの利点を活かしているように感じた。

シン・ゴジラは人間とは比較にならない巨大さで移動するだけで被害を及ぼす災害のようなものだったが、マイゴジは人間との対比で大きさが強調され、積極的に人間に襲い掛かってくる獣として描かれており、かなりわかりやすく差別化されている。

また地上での破壊シーンに顕著だが、建物の瓦礫やゴジラ自身にもあまり重量感がなく、街を含め全体的に作り物っぽい。私は基本的に着ぐるみやミニチュア、実写合成の特撮が好きなのだが、今回は意外にもファンタジー的タッチのゴジラとしてこれはこれでアリだと思った。ゴジラが傷つき再生する様や、放射熱線で背びれが動くギミックも着ぐるみとはかけ離れたもので、独自のゴジラ像が確立されているのではないかと感じた。

 

本作のゴジラ登場シーンの中でも素晴らしいのがメインとなる海上でのアクション。ゴジラが元々海洋生物であることを思い出させる悠々とした泳ぎっぷり、中でも新生丸とのチェイスシーンは船や軍艦との大きさの対比に、敷島たちがゴジラに一矢報いる工夫が光り、ゴジラが再生する絶望感もあり本作でも一番の見所だと思う。

ゴジラ以外にも、戦艦や戦闘機についても造形・アクション共にかなり楽しめた。筆者はミリタリーにはど素人で知識は皆無だが、あれだけディティールのしっかりした戦闘機・戦艦・ボロ船がゴジラと対峙する様は見ていてとても興奮するものだった。

 

不満点として、全体的にゴジラの登場シーンが短いことが挙げられる。短いというよりもほぼ毎回唐突に現れて唐突に帰っていくのでどうにもダイジェスト感があり、どのシーンも見ていて少し物足りなかった。せっかく魅力的なのだから、もっとゴジラをたくさん見せて欲しかった。

また前述のように今回のゴジラは積極的に人間を殺しに来るのだが、その割に血や死体が画面に映らず嘘っぽく見えてしまうのは気になった。恐らく年齢制限を回避するためだろうが、それならば敢えて人を噛んだり踏みつぶしたりする描写を入れなくてもよいのではと思ってしまった。

結果的に戦争を肯定してしまう論理

ドラマは全くと言っていい程楽しめなかった。

山崎貴お馴染みの説明台詞と過剰な演出は健在で、せっかくの俳優陣の演技の余韻をことごとく壊していく。映像から読み取れる情報を逐一説明し、あらゆる感情を過剰に表現するから一本調子で見ていて辛くなる。ただ、数少ない説明台詞無しのシーンの一つに敷島の慟哭シーンがあり、あのシーンだけは言葉もない敷島の激情が表現されていて良いシーンだと思う。

 

ストーリーにもかなり文句があるのだが、何よりも信じられなかったのが本作が仮にもゴジラなのに(少なくとも部分的に)戦争を肯定してしまっていること。

海神作戦の会議中、ある元海軍と思しき男が「また俺たちに船に乗れと言うのか」と発言する。参加は強制ではないことを告げられ、彼は会議室を去る。その後、また別の人の発言をきっかけに「無駄死にではない」「守るためだ」「誰かが貧乏くじを引かなくてはならない」という理屈で多くの人間が作戦への参加を決めるが、最初の一人が唱えた「また戦争をするのか」という疑問はこの後一切議論されない

作戦立案者の野田によって「人命を軽視しない作戦」にしようとフォローは入るが、敷島は脱出装置取り付け前から戦闘機に乗る気満々、兄貴分である秋津は年若い水島を作戦から外すなどこの作戦に命の危険が伴うことは明らかで、野田のフォローは詭弁でしかない。その上で、再び戦地に望む兵士たちを「活き活きしている」と肯定的に描いてさえいる。

 

勿論、特攻隊員の犠牲を描き第二次世界大戦という特定の戦争の悲惨さ、それを起こしてしまった旧大日本帝国を批判的に描くことで「反戦」を訴える日本映画の文脈はあるだろう。また、攻撃を受ければ自衛のための戦争がやむを得ない場合もあるだろう。しかし、戦力の行使という手段を取った事自体への批判が全くなく、単なる防衛戦争とはまるで意味が違って見えた

元軍人を集め、戦艦や戦闘機を調達しながらやたらと「民間」を強調し、前述のように「ましな戦争」があるかのように錯覚させる語り口は、むしろ戦争を始めるための大義名分にさえ聞こえる。これが戦争に臨む国家の異常な空気感への皮肉ならまだ理解できるのだが…。

 

ただ個人的な推測だが、この戦争に関するスタンスに山崎貴の思想が強く表れているというよりは、「ゴジラと旧日本軍の戦闘」という見せ場ありきで、大衆ウケが良いように「反戦」っぽいラッピングを施しただけではないかと思う。

しかし、『ゴジラ』(1954)では大量殺戮兵器を使用する代償として、その兵器の開発者である芹沢博士は自らの死を以て兵器を封印する。『シン・ゴジラ』(2016)では鉄道や重機などのインフラと科学技術を使用しゴジラを凍結する。同じ戦後昭和の時代設定であり元祖である『ゴジラと、最も近い時期に日本で作られた『ゴジラが、わざわざこれだけ徹底的に戦力の行使を忌避していることと比較して、本作は「反戦映画」としては不徹底だと私は考える。

敷島に都合の良すぎる物語

またキャラクター造型にもかなり不満がある。特に主人公である敷島について、本作のドラマは完全に彼を中心に展開されるが、それを差し引いてもかなり彼に都合よく周囲の人間が動かされているのが気になった。

野田は作戦会議の途中で去ろうとする敷島を会議を中断してまで引き留め、彼のために戦闘機を用意するなど敷島を高く評価している。しかし敷島は訓練の成績は良いとされているが、実戦経験はないため野田から見て彼の実力を判断する材料はなく、この評価は不自然である。(新生丸で機銃の腕前を見てはいるが、操縦に関しては未知数のはずである。)

また敷島の要望でかつて大戸島の悲劇を共に味わった元整備兵の橘を作戦決行を延期してまで捜索しているが、これははっきり言って大戸島でのトラウマを解消したい敷島のエゴであり、作戦よりも一兵士のエゴを優先する理由はない。橘はどうやら整備兵として凄腕らしいが、(観客にとっても敷島にとっても)それがわかる描写は劇中には見当たらない。

そもそも彼は典子、明子への接し方や橘の呼び寄せ方などトラウマを抜きにしても人格に問題があるように見えたので、そんな彼が人望を集めていること自体違和感がある。

 

筆者は浜辺美波が割と好きなので、典子の扱いの雑さも見ていて辛かった。当初は他人の子供を連れたガサツな女として登場するが、間もなくガサツさはどこへやらいかにも昭和的な貞淑な妻に変貌する。飲み会の場面に顕著だが本当にジェンダーロールが酷く、これが令和の映画なのかと目を疑った。これに関して「昭和の実情を忠実に描いているだけだ」という意見も見るが、実情の再現自体ではなくそれを女性がどう感じているかを描写しないことが問題で、その「女性の視線の排除」という図式もまた昭和的という入れ子構造になっていて本当に救いがたい。

また彼女は敷島が危険を伴う仕事に就くことに終始反対しており、終盤で敷島がゴジラを殺すために特攻も厭わなくなることに最も批判的な意見を唱えられる立場であった。しかしあろうことか、彼女は終盤を目前に退場させられ、敷島の覚悟を後押しする原因になってしまう。つまり男たちの自己実現のための戦争をを正当化するために、戦争で家族を奪われる女の悲哀を意図的に排除しているのだ。敷島が生き残った「ご褒美」として「生き返らせられる」ことも含めて、ご都合主義も甚だしく不愉快だった。

 

長くなったが一点だけ本作のドラマを擁護しておくと、本作のドラマの内容はシンプルで薄味なものだが、これは怪獣エンターテインメントとしては間違いではない。もちろんドラマ自体も見所として機能するに越したことはないが、本不要な要素が削ぎ落され深く考えさせる内容のない本作のドラマは、真の主役たるゴジラの活躍の大きなノイズになることはなかった。(削ぎ落して残った要素がそれかよ!というのがここまで垂れ流してきた批判である。)

そもそもこの映画なんなん?(余談)

この映画は敗戦直後の日本を舞台にしてはいるが、私はこの時代設定にそこまでの意味を見出せなかった。描写が敷島の周囲に偏っていることもあり、その時代の人々の生活感や風土が描かれないためどこか作り物っぽく現実感がない。極論、戦後の敗戦国という要素さえあれば異世界、あるいは歴史のIF(例:戦後も大日本帝国が存続した世界)と言われても頷いてしまいそうで、先述したゴジラの質感もあってこの作品はファンタジーだと感じながら観ていた。

 

この映画は海に沈んだゴジラが再生する様子が映されて幕を閉じ、エンドロールの最後にはゴジラのものと思しき足音が響き渡る。前者は『ゴジラ』や『シン・ゴジラ』に通ずる、ゴジラの脅威が終わったわけではないという描写だと言えるが、後者は異質だ。

この足音については様々な解釈ができるが、私はゴジラが再生を終え既に日本に迫っていると解釈した。「戦争そのもの」についての反省をせず、戦争のメタファーであるゴジラに戦争で応じるという間違いを侵してしまった日本は、これから無限に再生するゴジラという怪物との終わりなき戦争を強いられるということなのではないか。

正直これは本作のドラマに大きな不満があり、観ているうちに人間よりゴジラの方を応援していた私に都合のいい、偏った解釈である。実は作り手も本作のドラマの現実感の無さと欺瞞を自覚していて、最後にそれを否定し破壊したがったというのは、いくら何でも深読みし過ぎだと思う。

ここまで書くと誤解される可能性があるので一応弁明しておくが、私は日本が無抵抗でゴジラに破壊されればよかったと言っているわけではない。防衛戦争をするにしても、戦争を起こしたことそのものへの反省は明確にしなければならない、という主張である。少なくとも私から見て、文脈上「第二次世界大戦」「特攻」「大日本帝国」への反省ではあっても「戦争を仕掛けたこと」への反省といえるものは見当たらなかった。

おわりに

分量としては批判の方が多くなってしまったが、これでもこの映画には概ね満足している。それはひとえにゴジラのデカさ・コワさ・カッコよさによるもので、それは白組と密接な連携を取り最大限に力を発揮させられる山崎貴監督あってのものだろう。山崎貴監督、ゴジラを撮ってくれてありがとうございます。