お前も茶漬けにしてやろうか!-茶柱の人生丸茶漬け-

見た作品のその時々の感想置き場

『ウルトラマンブレーザー』全体感想:命の行方を照らすコミュニケーション(ネタバレあり)

https://x.com/ultraman_series/status/1668196530992599040?s=20

1月20日、『ウルトラマンブレーザー』が最終回を迎えた。近年のウルトラマンとは異質な要素が多い本作は放送当初から注目を浴び、その勢いのまま走りきった印象。私も大いに楽しんだ。その分ファンの期待も大きかったようで、自分の観測範囲ではほどほどに賛否が分かれていてそれもまた良かった。自分とは違う意見を知るのも鑑賞体験の一部だと私は考えているので。

横軸重視の面白さ

本作は近年では通例となっていた旧作ウルトラマンの力を借りる設定や客演がなく、さらに登場する怪獣も大半が本作初登場である。これは2013年の『ウルトラマンギンガ』以降のウルトラシリーズでは初めてであり、有名怪獣のゲスト出演が定着したのが『マックス』(2005)だと考えれば『ネクサス』(2004)以来、実に19年ぶりの完全に独立した世界設定である。

反面、作風については作品を通しての悪役が登場せず基本的に1話完結であり、どちらかと言えば昭和・平成のウルトラ作品に近い印象を受ける。縦軸要素である謎の存在「V99」もすべての黒幕や諸悪の根源などのストーリーと密接に関わるものというより、話を跨いで登場する大ネタ程度の扱いだ。怪獣たちの個性を活かしたバラエティ豊かなエピソードの数々が本作の魅力である。

私もはっきり言って全話好きなのだが、特に推したいのは第6話「侵略のオーロラ」と第14話「月下の記憶」、第21話「天空の激戦」。

第6話に登場するカナン星人は元は『ウルトラセブン』(1967)に登場した宇宙人でカプセル怪獣のウインダムを洗脳したのだが、本作でもロボット怪獣のアースガロンの洗脳と整備士であるバンドウ・ヤスノブ隊員の懐柔を企む。

このカナン星人は『シン・ウルトラマン』のメフィラス星人をカジュアルにしたような感じで、服や洗濯、ピクニックという生活感やダジャレまで使いこなし、地球人との心の距離を縮めようとしてくる。愛嬌があり可愛らしささえ感じさせるが、それが却って不気味。「機械には心があり、自分はそれを解放している」と嘯くが実際にはカナン星人の方が機械を都合よく使役しており、また「カナン星は戦争で壊滅状態である」として同情を誘うがそもそもそれは自業自得であるなど、発言自体に全く信憑性がない。

このことからそもそも機械に心があるのかさえ怪しいのだが、最終的にヤスノブとゲントは洗濯機のクルルに心があることを信じ、クルルがそれに応えるかのように揺れた。機械の心を信じることを肯定し感謝を告げるという終わりが、本作のテーマを端的に表していてとても美しいと感じた。

第14話、第21話はどちらも月光怪獣・デルタンダルが登場する話。デルタンダルは一言で言えば「着地しない飛行怪獣」という珍しい怪獣で、この2話ともに戦闘は全て空中戦。

第14話はなんと2分30秒もの戦闘を1カット風に処理するという挑戦的な作り。闇夜の中で閃光と爆炎に照らされながら、空中戦ならではのダイナミックな距離感で繰り広げられる攻防がとてもカッコいい。第21話では前回の6倍もの巨体で登場、UFOのような異様な存在感を放ちながら爆撃を行うが、最終的にはMod.4に換装したアースガロンとダイナミックな空中戦を演じる。空中戦が大好物の筆者にとっては存在自体が有難いデルタンダルが、監督・脚本によってここまで違う活躍を見せてくれるとはご褒美すぎる。本作のアクションパートはこの2話だけでもお釣りがくる程に私は満足した。

 

他にも、越知靖監督が担当した回(第9~10話、第18~19話)はどれも好きだ。本作はよく言えば硬派、悪く言えば地味な絵づくりが多い印象があるが、越監督は派手なCGエフェクトと大胆な構図を多用するため特撮シーン、特に必殺技に見応えがある。また、顔面アップや立ち姿をしっかり映したカットが多く、ブレーザーの独特なデザインがしっかり見られるのが嬉しい。

更にドラマパートでは映像で見せたい部分を見せた後、台詞であっさり説明してしまうというこれまた大胆な癖がある。しかし第9話、第10話はそれぞれ締めの部分での台詞が説明的ではあるが、逆にその明け透けさがこちらに直接訴えかけるようで、ある種あざといような独特な味わいがある。本作は全体的に説明が少なく視聴者の解釈に委ねる部分が多いが、この作風はその方針によくマッチしていたように思う。

ブレーザーの特徴である「声」に関する描写も多く(第10話のハウリングブレイク、第19話のファードランとの共鳴)、見方によってはメインの田口監督以上に本作らしさをうまく表現している。私は『ウルトラマンZ』(2020)の第16話を観た時から越監督のファンを自称していたが、本作は彼の魅力がたっぷり詰まった一つの到達点のように感じた。

ここから更に、一番好きな怪獣はゲードスで……ヴァラロンも良くて……という話まで始めると終わりが見えないのでここで切り上げるが、とにかくどの回・どの怪獣も魅力的で、作品全体の満足度の高さは今まで見たウルトラ作品の中でも随一だと感じた。

リアリティライン高めの作風

本作は脚本及びシリーズ構成(田口監督と共同)を担当する小柳啓伍氏によるミリタリー考証が徹底されているようで、SKaRD MOP内部やアースガロンのコクピットを始めとした防衛隊の装備、SKaRDの面々の行動や専門用語などに見て取れる。アースガロンへの搭乗員を固定しない、土日込みのシフトを組む、人形とミニチュアを用いた戦闘シミュレーションの妙に和やかな雰囲気もあり、リアルな特殊部隊っぽさと共感できるお仕事描写が絶妙なバランスで同居しているのが見ていて楽しい。

これほどミリタリー色の強いウルトラマンというとやはり『ウルトラマンガイア』(1998)を連想させ、本作は「ニュージェネレーションガイア」ではないとはいえ、随所に感じられる繋がりのひとつである。

これらの設定部分でのリアリティラインが高く保たれているからこそ、怪獣へのSKaRDの対応に説得力が生まれる。観察を通して分析し仮説を立て実行する、この4ステップがSFドラマとしての面白さを形作っている。例えば、第5話で科学的な仮説が立てられて初めて絵巻物に信憑性を見出したり、第19話でテルアキの「ガス」仮説が外れたりするなど、細かい部分にもこの姿勢が徹底されている。

リアリティと言えば、本作の特撮はロケーションの多様さが印象的だ。第1話と第25話では実際の池袋や有明の街と怪獣が合成される。また、第2話ではプールを使用せずに港との実景合成により港町を再現、さらに19話では空撮との合成でブルードゲバルガの巨体を表現するなど、実景合成が効果的に用いられている。

また背景セットにも工夫が見られ、都市や田舎町といった似たような場所でもミニチュアの種類や配置、照明を変えることで別の場所に見せるようにしている。上記の実景合成や空中戦も合わせると毎回違った場所で戦っているということを映像から感じさせ、あの世界自体の実在感が高まっている。

ウルトラマンブレーザー

造形・アクション共にブレーザーはめちゃくちゃ私好みのウルトラマン。左右非対称の全体像に始まり、結晶体が飛び出た頭部、骨格が浮き出たようなフォルムに、赤青二色の遺伝子を思わせるライン。情報量は多いものの「生物的」という統一性があり、平成以降のウルトラマンの中でもかなり纏まったデザインだと思う。

頭部の傷らしき意匠や体の起伏に沿っておらずぐんぐんカットを見ても後天的に獲得したと思しきラインなど、意図的に違和感を盛り込んでいると思われるが、生物としてはむしろそれらの違和感が「自然」なものであり、その意味で万能の神故に左右対称である「ウルトラマン」とは対照的だと思う。

 

アクションに関しては敵を威嚇する、飛び跳ねるなど荒々しい所と、戦闘前の祈祷らしき独特のポーズや、肘や膝を多用し弱点を狙う容赦ない戦い方など文化や知性を感じさせる面もあり、総じて狩人っぽい印象がある。

またレインボー光輪、チルソナイトソード、ファードランアーマーなどを見るに、エネルギーや物質を武器に変えて使うことができると思われる。これまたモンハン狩人らしい設定で、苦戦が多いブレーザーが強敵相手に逆転できる理由付けにもなり、スパイラルバレードやレインボー光輪を変形させる(所謂「大喜利」)のは見ていて楽しい。そしてチルソナイトソードとファードランアーマーは最終話の「武装解除」に繋がっており、上手くドラマに活かされているのも良かった。

また本作は当初、ニュージェネ恒例のインナースペースが廃されたと思われていたが、第8話以降はブレーザーブレスを操作する手元だけを映した限定的な形で使用された。この手元インナースペース、本作が従来のお約束を廃した結果、却って残った少ないお約束が悪目立ちしているようで好きではなかった。だが、第14話のワンカット風演出に組み込んだのには感心したし、最終話には完全にやられた。ゲントの家族との絆を象徴するアイテムをブレーザーブレスと同じ左腕に集中させ、初めて顔を映すことで今までになくゲントとブレーザーの繋がりが強まっていることを端的に表現していて唸らされた。

 

そして、ブレーザーの特徴の中でも最も印象的なのが声。私はとにかくウルトラマンの声が好きで、ウルトラマンゼロ以降の声優や俳優の台詞と地続きのような感じよりは、昭和やティガ、ネクサスのような掛け声のみの声優が起用された人間とはどこか違う異質な声が好きだ。

それで言うとブレーザーは大好きだが、人間と違うとは言ってもどちらかというと獣っぽく、ウルトラマンの中でもかなり珍しいタイプ。巻き舌や叫び声、唸り声などとにかくうるさい。というかウルトラマンの声は飽くまで演出上のものだと思っていたのだが、明確に聞こえるものとして戦いにまで組み込んだ例は初なのではないか(技として使った前例はジードがいる)。

それに加えブレーザーは地球語が喋れない。田口監督曰く「宇宙人が地球語をしゃべるわけがない」とのことで、本作がSFとして考証を徹底した影響もあるようだ。彼と会話が成立しないからこそゲントやSKaRDは彼の行動を観察し、彼らの関係性の変化がドラマになっていて面白い。そしてその積み重ねの成果が、最終話でブレーザーが初めて地球語を発するあの感動的な瞬間である。

 

少し脱線するが、私はヒーローというものは「何処からともなくやってきて助けてくれる存在」と考えており、つまりは「都合のいい他者」だと思っている。なので程度問題ではあるが、実は私はヒーロー個人の人格を掘り下げるようなドラマには基本的には反対。宇宙から来たウルトラマンと変身する人間が別人格な融合系ウルトラマンは特にそうだ。

だから私は、人間とウルトラマンが対面し、ウルトラマンの他者性が際立つシーンが大好きなのだ。特に『ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT』や本作最終話のように、現実世界で大きさに差がある状態で向き合うのがたまらなく好き。

『Z』でのインナースペースや、本作での手を取り合うシーンなど同じ等身で向き合うシーンもそれはそれでいいのだが、超越存在であるウルトラマンが人類に目線を合わせてくれているようで、対等ではないと感じるのだ。

話を戻すと、あのシーンは私の知る限りウルトラマン史上で最も真摯に人間とウルトラマンの対話を描いており、本作のテーマである「コミュニケーション」の一つの到達点でもある。間違いなく本作のベストシーンだと思う。

SKaRDとアースガロン

本作のドラマの中心となるのが主人公のヒルマ・ゲントと彼が率いる特殊部隊・SKaRDの面々。どのメンバーも抑え目の演技で実在感のあるキャラクターになっており、個人的にとても好みのチームだ。

ゲントはウルトラマン変身者としては珍しく、特殊部隊の隊長かつ妻子持ちである。その立場上彼は上司と部下、家族と仕事、人間とウルトラマンなど様々な板挟みにあっている。責任ある立場故に決断を下さねばならないが、その結果として彼は何度も家族やハルノ参謀長、そしてSKaRDのメンバーを裏切るような形になっている。この決断力の表れが「俺が行く」なのだが、ある意味これは板挟みへの思考放棄ともいえる、少し危険な考え方だと思う。そして、そのある意味孤独なゲントが言葉の通じない相棒と手を取り、部下に仕事を任せることができるようになったのは、テーマに沿った確かな成長だといえる。

ここが本作の面白いところで、テーマであるコミュニケーションを「話し合って解決する」という安易なものではなく、むしろほとんど上手くいかないものとして描いている。誰よりもコミュニケーションに難を抱える人間を主人公にし、その難しさを端的にしかしリアルに描き続けるのはなかなか挑戦的だと思う。何せ爽快感がない。しかし同時に、それらの困難を経てたまに上手くいった時の喜びもまたリアルなもので、そのコスパの悪さ」こそが現実のコミュニケーションの本質を捉えているようでかなり共感できた。

これは他の4人のメンバーも同様であり、大切な相手と満足に意思疎通が出来ないままに終わるエピソードが彼ら全員にある。それでも彼らは自分なりに思いを向けたり受け取ったりして、それを自分の一部にして成長していることが第24話の自由行動シーンで示される。とはいえメンバー同士はウェット過ぎない範囲で仲良しになっていくので全体的に雰囲気は良く、関係性が徐々に変化していくのも見ていてほっこりする。

 

そしてアースガロンについては、『Z』以降の防衛隊ロボット初のオリジナルデザイン(明らかにメカゴジラを意識してはいるが)であり、複座式コクピットやハンガー、出撃シークエンスの描写に今までとは段違いに力が入れられており見応えがある。

戦闘での活躍はウルトラマンのサポート的役割が多く単独での怪獣撃破が少なく、これには不満を唱えるファンも少なくない。私も不満がないと言えば嘘になるが中盤からはそういう作風だと受け入れたし、だからこそ第21話でウルトラマンの領域である空でアースガロンがウルトラマンと対等な活躍を見せることの感動がひとしおだったというのもある。どちらかというと、早くに行動不能になりブレーザーの前座となる流れが定着していたが、最終回の展開を考えるともっと堅牢さをアピールして欲しかった。また、V99由来の技術であることも、事前に布石を置くことは出来ただろう。

戦績の奮わなさに関してはハルノ参謀長が繰り返し「ブレーザーより先に怪獣を倒せ」と言ってるのがノイズになってしまっていると思っていた。しかし最終回を経て、実はこれは作品の方向性に沿ったものだったと考えるようになった。

 

劇中でSKaRD及びブレーザーは何体かの怪獣を見逃しているが、この基準は「破壊活動をしようとしているか否か」だと私は読み取った。ドルゴやデマーガは暴れている理由が人間側にあり、ガヴァドンは被害は出してしまったものの本人の意図するところではなかった。そして最終話でのV99迎撃ではなくヴァラロンへの対処を優先するテルアキの判断が「良い」のも被害を抑えることを目的としているからである。つまり、参謀長の命令を達成するしない以前に、「怪獣を倒す」という目的設定自体が間違いということだ。

ただこれは正直言ってかなりわかりにくかった。まず参謀長の発言はウルトラシリーズ恒例の「地球は人類自らの手で守るべき」論でもあり、さらに曲がりなりにも直属の上司の発言なのだからこれが「正しいもの」と受け取られても仕方がない。

また「被害を抑える」ことがSKaRDの目的だというのもわかりにくい。まあ「防衛」隊である以上当然と言えば当然なのだが、作中で「命を守ること」を目的にしているとわかる(と思われる)のはゲントとブレーザーで、SKaRDに関しては明言されてない。

そして、(これが一番の手落ちだと思うが)本作は守るべき一般市民の描写がかなり少ない。ヒーロー作品には一般市民を守る描写は必須だと私は考えているのだが、本作は人間ドラマがSKaRD周囲に偏っていたため一般市民の印象が薄くなってしまった。

ただそうは言っても、「命を守る」という理念が作中で一貫しているのは立派で、それを読み取れなかったのは私の落ち度。対V99用兵器として作られたはずのアースガロンが彼らとの対話に使用されるのもその理念に完璧に沿った展開だと言える。

そして何より、私は第3話の時点でアースガロンの玩具代の元は取れていると言い切れる。それだけアースガロンの出撃シークエンスと初戦闘には満足させてもらったのだ。

本作が描いたコミュニケーション

V99については序盤から謎が撒かれつつ中盤以降纏められていくが、基本的にはよくわからない存在。事実と言えるのは、1999年にドバシがV99の船を撃墜したことと、V99が3体の怪獣を地球に送り込み、最後に船団が飛来したということだけである。しかし、本作のテーマを鑑みればV99はこれで良い。わからないままに思い込みで攻撃することを否定し非暴力による停戦を描くためには、むしろわからない方が良い

 

本記事でも幾度となく「コミュニケーション」に言及しているが、この表現は曖昧過ぎるのでここでより具体的にしておきたい。本作における「コミュニケーション」とは、知らないものを「知ろうとする努力」であり、わかったふりをして「決めつけること」の対極にあるものだと私は考える。(多分に私個人のコミュニケーション観も入っているが。)

本作は人間とウルトラマン、人間同士のコミュニケーションだけではなく、人間と怪獣とのコミュニケーションも描いている。『コスモス』のような和解や『X』のような対話こそないが、人間とは異なる怪獣の生態を科学的に分析し知ろうとすることもまたコミュニケーションである。(だからこそ、被害を出そうとしていないのに、怪獣だから悪と決めつけて排除することはきちんと否定されている。)

また、考証を徹底的に重ねるSFというジャンルの在り方は、それ自体が知ろうとする努力そのものである。「コミュニケーション」というテーマはドラマパートに限らず、SFを志向する本作の根幹と密接に結びついているといえる。

 

そしてここまでコミュニケーションの難しさをあらゆる角度から描いてきた本作が、クライマックスでV99に対する非暴力交渉という理想主義に振り切れる。これが本当に素晴らしいと思った。

そもそもヒーローもの、ましてやアクションが前提にある特撮ヒーローで非暴力を描くのは難しい。暴力は平和とは相容れないのに、平和を目指す手段として暴力を振るうという矛盾を特撮ヒーローは常に抱えている。それこそドバシはV99との争いの元凶ともいえる普通のヒーローものなら罰されるべき人物だが、本作では彼は罰されることなく終わる。誰かに責任を押し付けることは次の争いの火種になり得るので、(この瞬間だけでも)徹底した非暴力を描くにはドバシを罰して満足してはいけなかったんだと思う。

罪(と見做せるもの)を罰しないというのはヒーローものとして倫理的に危ういところもあるし、作品のほかの部分との整合性が取れていないと感じる所もあり、そもそも攻撃を仕掛けてくる相手に非暴力で応じるのはあまりに非現実的でもある。しかし、コミュニケーションの難しさと向き合い続けた本作だからこそこのメッセージに説得力が生まれるのだと思う。ドラマとしてのバランスを崩し、カタルシスを削いでしまうとしても、やはり私はフィクションだからこそこの非現実的な理想を描く価値があったと思う。

おわりに

ここまで長々と書いてきたが、本作には不満も多い。先述の参謀長の台詞やドバシの悪役ムーブ、ゲントの体調不良などが思わせぶりなだけで解決しない、アースガロンがV99由来なのが唐突かつ都合が良過ぎるなどシナリオ的に気になる部分が多い。またこれも先述したが、ブレーザーとのかかわり方がゲントとSKaRDで度々混同されているように見えるのも気になった。どうせならSKaRD個人個人のブレーザーへの印象の違いが反映されたドラマも観たかった。あと、特撮ヒーローものとしての盛り上がりが必要なのはわかるし、実際に私もノリノリだったけど、やはりヴァラロンは連れて帰って完全に停戦で終わらせて欲しかった!

 

しかしこれらの不満を考慮しても、私は本作が大好きだ。防衛隊と人間、怪獣とウルトラマン、そしてSFとしての作品の在り方の全てが『コミュニケーション』というテーマに集約される構造とその末に描かれた理想は本当に素晴らしかった。文句なしで個人的ベストウルトラマンのひとつになりました。この作品を作ってくれた方々に心から感謝します。