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見た作品のその時々の感想置き場

『第9地区』感想:日本の特撮ヒーローファンが観るべき映画!

ウルトラマンブレーザー』最終回を観てから、UFOやエイリアンとの対話を描いた映画を探していて出会った『第9地区』。

2009年公開の映画で私はほとんど知らなかったけど、もうポスターの時点で求めてるタイプの映画なのは明白だったので観たら、最高だった。

エイリアンの文脈も素晴らしいのだが、表題の通り日本の特撮ヒーローファンとして刺さる要素が複数あってかなり楽しめた。

いつも通りネタバレ全開で感想を書くが、もしまだ観ていない方が読んでいれば先に本編を観て欲しい。出来るだけ先入観を入れずに観た方が面白い映画だと思うので。

報道の暴力

本作は所謂フェイクドキュメンタリーの手法を用いている。後半はドラマ的要素が強まるが、その中でも監視カメラや報道ヘリからのニュース映像が挿入され映像的な一貫性を作っている。

UFOやエイリアンが登場する世界とそれらが現れ定着した経緯を視覚的に端的に説明する冒頭シーンは、観客を一気にこの世界に引き込むパワーがある。巧いのはエイリアンやUFOの設定を確定的なものではなく、飽くまでインタビューを受けた人々の解釈としてしか描いていないこと。これによりエイリアン周りの神秘性を保ちつつ、この世界が彼らをどう受け入れたか等のこの世界の価値観がわかる。(作品を観進めていくとわかるが、彼らの解釈の中には明確に外れているものもあれば当たっているものもある。)

 

さらに主人公ディカスの関係者へのインタビュー映像を通して、彼に何かが起こった事を序盤から提示することで物語の推進力を作っている。最初は曖昧だった表現が徐々に具体的になっていくのと、ディカスにその何かが起こるまでのドラマの進行がリンクしており、真相がわかる瞬間の衝撃も高めている。

 

そして最も印象的なのが、ドラマ上の意味とは別にこれらの映像自体が報道の危険性を浮き彫りにしていること。

ニュースに映るエイリアンは粗暴な行動が目立つが、これらは偏向報道である可能性がある。上記のインタビュー映像では、「有識者」の発言のエビデンスは示されず、ディカスの関係者たちはいわば手前勝手な「お気持ち表明」をしているだけで、どちらも客観的事実とは程遠い。

そして実際に主人公ディカスは中盤、根も葉もない醜聞ひとつを暴力的ともいえる拡散力で広められたことであっけなく社会的信用を失ってしまう。これが単にエイリアンとの共謀などではなく性的関係という生理的嫌悪感を煽る内容で、受け手の理性的判断力を失わせているのが狡猾なところ。

また追われる身となったディカスの境遇からわかるように、ゴミ漁りや窃盗などは過酷な環境で生き抜くための苦肉の策でもある。しかし特定の人々を虐げたい側からすれば、彼らから権利を奪えば奪うほど彼らの社会的信用を下げられるという最悪な一石二鳥の仕組みが出来上がっている。

これら一連の映像を視聴者として見せられる観客は、この映画内だけでなく普段自分が見ている映像も意図的に編集されたものではないかという疑念を否応なく抱くだろう。それら全てを疑うことがいかに難しいかは考えるまでもなく、「世論が誘導されている」という普段は眉唾に聞こえる言説が嫌な現実味を帯びてくる。それを野暮な説明ではなく、資料的な映像を通して肌で感じさせてくるのがとても巧い。

普通の人

本作の主人公のディカス・ファン・デ・メルヴェは冴えない小役人的な男で、登場シーンからして主人公らしいカリスマなど皆無なのだが、これが本作の物語には最適だった。

彼が作中で最初に行う仕事がエイリアンへの立ち退き交渉(実態は強制移住)なのだが、この一連の交渉シーンの描写が秀逸。

エイリアンへの侮蔑をむき出しにする傭兵たちと違って彼は真摯な態度で対話に臨んでいる……と言いたいところだが、実際は差別行動のオンパレードである。

「エビ(prawn)」という蔑称に疑問すら持たず、行動ひとつひとつから相手を知能の低いものと見下していることが見て取れる。これらがまあ結構な長さでねちっこく描写されていて目を覆いたくなる。具体的に挙げていくとキリがないが、最も印象的なのはやはり「中絶」だろう。そもそも地球人の法や常識に詳しくないのを良いことに都合を押し付け、現在より劣悪な居住地を快適だと偽って移住させようとするこの交渉そのものが暴力的である。

彼が温厚な人物なのは間違いなく、本人なりに真摯な対話を心掛けているのだと思う。だがそんな彼でさえ、ということである。ディカスのような普通の、つまり差別主義者や過激派を自認しない人々が、自分と相手が対等ではないと当たり前に思っている。この差別描写が恐ろしくリアルで、現実でも上記のような暴力が平然と行われていたことが想像に難くない。(つい30年前までアパルトヘイトが行われていた南アフリカが舞台というのも、無関係と考える方が無理がある。)

そして極めて自然に在る差別が生々しく徹底的にリアルに描かれ、主人公がそれに疑問を抱かない凡人であることがこの映画の二つの劇的な「嘘」を映えさせている。

 

ひとつはディカスの「変身」。

ディカスはある液体を浴びたことで肉体が徐々にエイリアンに変化していくのだが、これにより彼は一転差別される側に立たされ、その恐ろしさを嫌というほど味わうことになる。

恐らくディカスは先述したような差別行動を無意識に「知能の低い相手に合わせている」と正当化していただろうが、実際にはそれは間違いだった。相手が言葉が通じようが何を考えていようが差別をする側の都合で簡単に握りつぶされるのだと、比喩ではなく身をもって彼は体験する。

もうひとつは、本作終盤のディカスを巡る因果。

ディカスは身体が変化し始めてから次第に冷静さを失い、自己中心的な行動が目立つようになってくる。そして液体の使い道を巡ってクリストファーと争い彼を裏切ってしまうのだが、司令船は撃墜され二人とも捕らわれ全てが上手くいかない。その後、パワードスーツの力で何とか脱出したディカスは、今度はクリストファーを助け自身が囮になり、最終的にクリストファーは母船へ戻ることに成功する。

私はここは「団結すれば立ち分裂すれば倒れる」あるいは自己犠牲の美しさなど、割とシンプルに熱い展開だと思ったのだが、これは本作の(特に前半の)ドキュメンタリックな作風には一見似つかわしくないように思える。しかしそうではなくて、前述したようにむしろリアリティで地盤を固めているからこそ劇的な展開が活きるのだ。

ディカスは徹底的に凡人として描かれており、観客から(英雄への憧れではなく)卑近な人物として共感を得る。だからこそ彼の身に降りかかる悲劇と、最終的に彼が見せる勇気の尊さが一際心に訴えかけるものになるのだと私は思う。

特撮ファンとして

ここまで本作のフェイクドキュメンタリーとして優れた部分に言及してきたが、監督によると本作は政治的な映画ではなく、娯楽作品として作られたものらしい。

実際、作品後半で繰り広げられる白兵戦や、パワードスーツでの大立ち回りなどアクションシーンはかなり見応えがある。ゴア描写も(ギャングや傭兵のクズっぷりも込みで)爽快感があるいい塩梅だと思う。またエイリアンの武器や、クリストファーの家の研究設備や司令船の内装など、メカ・ガジェットの造形もかっこよくワクワクさせられる。

しかしそれ以上に、日本の特撮ファンとして見逃せない描写がこの作品にはあって、正直言って私が本作を好きになった一番の決め手はそれらだった。一応断っておくと、監督が日本の特撮番組を参考にしたというソースはないし、そういう主張をしている訳でも勿論ない。オタクが勝手に結びつけて喜んでいるだけなので誤解なきよう。

 

まずは勿論、「エビ」と呼ばれる本作のエイリアン。私は『ウルトラマンブレーザー』のV99及びその考察で名前が挙がるバルタン星人的なものを求めて本作を観たのだが、そういう意味で本作はドンピシャだった。昆虫・甲殻類っぽい造形といい具合に作り物っぽい質感が、リアル寄りで西洋風のバルタン星人に私の眼には映って、大変満足だった。

また本作ではエイリアンの視点からの描写は最低限に抑えられており、彼らの生態や文化などは飽くまでディカスや「有識者」の解釈として描かれる。この他者を理解したつもりにならない真摯な描き方も、V99と同じで求めていたそれだった。

 

そしてこちらは予想外だったのだが、本作には仮面ライダーに通じる要素もある。身体に異変が起きたディカスはMNUの研究施設に捕らわれるが、隙を見て脱出する。(エイリアンが昆虫っぽいのもあるが)このシーン、完全に改造手術後にショッカーから脱走する仮面ライダーじゃん!

というかむしろ、手術の様子を詳細に映した仮面ライダーの前例は私は知らないので、何なら仮面ライダーとしても新しいのではないか。実験の凄惨さやそれを実行する奴らの酷薄さを描くことで脱走するディカスを観客が応援したくなるつくりは、改造⇒脱走という仮面ライダーの様式に感情を乗せていて画期的だとさえ思った。私が本作で最も興奮したシーンはここだった。(ディカスが受けた実験は改造手術ではなく変身の原因は別にある、ディカスはその後臓器売買のために殺害されるところだった、という違いがあるのでこじつけ感は否めないが。)

また主人公が人間から被差別民であるエイリアンに変化するという展開は『仮面ライダーBLACK SUN』と重なる。『BLACK SUN』の差別描写がはっきり言ってかなり杜撰だったことを考えると、本作は『BLACK SUN』に当初期待されていたものを見せてくれていると思える。

 

まあ、これらの要素は普通にエンタメとして楽しめるものなので、無理に特撮に結び付けて観る必要はないし、失礼に感じる人もいるかもしれない。しかし自分はそれがあったから一層本作を好きになったのは事実なので、敢えてこういう形で感想を述べさせてもらう。

おわりに

本当に面白かった。フェイクドキュメンタリーをSF設定とそこにはびこる差別と絡め、メッセージ性もドラマ的盛り上がりにも活かしているのが本当に秀逸で、アクションを始めとした映像美や俳優の演技も素晴らしい傑作だと思う。ハリウッドとしては低予算で、監督はこれが長編初監督だというのが信じられない。

特撮ファンとして惹かれるポイントもあり、何なら本家(?)よりいいじゃん!とさえ思えてしまう部分も多々あった。日本の特撮ももっと頑張って欲しい、というのは無責任な発言だけど、本当に頑張って欲しい。応援してるから。

『ウルトラマンブレーザー』全体感想:命の行方を照らすコミュニケーション(ネタバレあり)

https://x.com/ultraman_series/status/1668196530992599040?s=20

1月20日、『ウルトラマンブレーザー』が最終回を迎えた。近年のウルトラマンとは異質な要素が多い本作は放送当初から注目を浴び、その勢いのまま走りきった印象。私も大いに楽しんだ。その分ファンの期待も大きかったようで、自分の観測範囲ではほどほどに賛否が分かれていてそれもまた良かった。自分とは違う意見を知るのも鑑賞体験の一部だと私は考えているので。

横軸重視の面白さ

本作は近年では通例となっていた旧作ウルトラマンの力を借りる設定や客演がなく、さらに登場する怪獣も大半が本作初登場である。これは2013年の『ウルトラマンギンガ』以降のウルトラシリーズでは初めてであり、有名怪獣のゲスト出演が定着したのが『マックス』(2005)だと考えれば『ネクサス』(2004)以来、実に19年ぶりの完全に独立した世界設定である。

反面、作風については作品を通しての悪役が登場せず基本的に1話完結であり、どちらかと言えば昭和・平成のウルトラ作品に近い印象を受ける。縦軸要素である謎の存在「V99」もすべての黒幕や諸悪の根源などのストーリーと密接に関わるものというより、話を跨いで登場する大ネタ程度の扱いだ。怪獣たちの個性を活かしたバラエティ豊かなエピソードの数々が本作の魅力である。

私もはっきり言って全話好きなのだが、特に推したいのは第6話「侵略のオーロラ」と第14話「月下の記憶」、第21話「天空の激戦」。

第6話に登場するカナン星人は元は『ウルトラセブン』(1967)に登場した宇宙人でカプセル怪獣のウインダムを洗脳したのだが、本作でもロボット怪獣のアースガロンの洗脳と整備士であるバンドウ・ヤスノブ隊員の懐柔を企む。

このカナン星人は『シン・ウルトラマン』のメフィラス星人をカジュアルにしたような感じで、服や洗濯、ピクニックという生活感やダジャレまで使いこなし、地球人との心の距離を縮めようとしてくる。愛嬌があり可愛らしささえ感じさせるが、それが却って不気味。「機械には心があり、自分はそれを解放している」と嘯くが実際にはカナン星人の方が機械を都合よく使役しており、また「カナン星は戦争で壊滅状態である」として同情を誘うがそもそもそれは自業自得であるなど、発言自体に全く信憑性がない。

このことからそもそも機械に心があるのかさえ怪しいのだが、最終的にヤスノブとゲントは洗濯機のクルルに心があることを信じ、クルルがそれに応えるかのように揺れた。機械の心を信じることを肯定し感謝を告げるという終わりが、本作のテーマを端的に表していてとても美しいと感じた。

第14話、第21話はどちらも月光怪獣・デルタンダルが登場する話。デルタンダルは一言で言えば「着地しない飛行怪獣」という珍しい怪獣で、この2話ともに戦闘は全て空中戦。

第14話はなんと2分30秒もの戦闘を1カット風に処理するという挑戦的な作り。闇夜の中で閃光と爆炎に照らされながら、空中戦ならではのダイナミックな距離感で繰り広げられる攻防がとてもカッコいい。第21話では前回の6倍もの巨体で登場、UFOのような異様な存在感を放ちながら爆撃を行うが、最終的にはMod.4に換装したアースガロンとダイナミックな空中戦を演じる。空中戦が大好物の筆者にとっては存在自体が有難いデルタンダルが、監督・脚本によってここまで違う活躍を見せてくれるとはご褒美すぎる。本作のアクションパートはこの2話だけでもお釣りがくる程に私は満足した。

 

他にも、越知靖監督が担当した回(第9~10話、第18~19話)はどれも好きだ。本作はよく言えば硬派、悪く言えば地味な絵づくりが多い印象があるが、越監督は派手なCGエフェクトと大胆な構図を多用するため特撮シーン、特に必殺技に見応えがある。また、顔面アップや立ち姿をしっかり映したカットが多く、ブレーザーの独特なデザインがしっかり見られるのが嬉しい。

更にドラマパートでは映像で見せたい部分を見せた後、台詞であっさり説明してしまうというこれまた大胆な癖がある。しかし第9話、第10話はそれぞれ締めの部分での台詞が説明的ではあるが、逆にその明け透けさがこちらに直接訴えかけるようで、ある種あざといような独特な味わいがある。本作は全体的に説明が少なく視聴者の解釈に委ねる部分が多いが、この作風はその方針によくマッチしていたように思う。

ブレーザーの特徴である「声」に関する描写も多く(第10話のハウリングブレイク、第19話のファードランとの共鳴)、見方によってはメインの田口監督以上に本作らしさをうまく表現している。私は『ウルトラマンZ』(2020)の第16話を観た時から越監督のファンを自称していたが、本作は彼の魅力がたっぷり詰まった一つの到達点のように感じた。

ここから更に、一番好きな怪獣はゲードスで……ヴァラロンも良くて……という話まで始めると終わりが見えないのでここで切り上げるが、とにかくどの回・どの怪獣も魅力的で、作品全体の満足度の高さは今まで見たウルトラ作品の中でも随一だと感じた。

リアリティライン高めの作風

本作は脚本及びシリーズ構成(田口監督と共同)を担当する小柳啓伍氏によるミリタリー考証が徹底されているようで、SKaRD MOP内部やアースガロンのコクピットを始めとした防衛隊の装備、SKaRDの面々の行動や専門用語などに見て取れる。アースガロンへの搭乗員を固定しない、土日込みのシフトを組む、人形とミニチュアを用いた戦闘シミュレーションの妙に和やかな雰囲気もあり、リアルな特殊部隊っぽさと共感できるお仕事描写が絶妙なバランスで同居しているのが見ていて楽しい。

これほどミリタリー色の強いウルトラマンというとやはり『ウルトラマンガイア』(1998)を連想させ、本作は「ニュージェネレーションガイア」ではないとはいえ、随所に感じられる繋がりのひとつである。

これらの設定部分でのリアリティラインが高く保たれているからこそ、怪獣へのSKaRDの対応に説得力が生まれる。観察を通して分析し仮説を立て実行する、この4ステップがSFドラマとしての面白さを形作っている。例えば、第5話で科学的な仮説が立てられて初めて絵巻物に信憑性を見出したり、第19話でテルアキの「ガス」仮説が外れたりするなど、細かい部分にもこの姿勢が徹底されている。

リアリティと言えば、本作の特撮はロケーションの多様さが印象的だ。第1話と第25話では実際の池袋や有明の街と怪獣が合成される。また、第2話ではプールを使用せずに港との実景合成により港町を再現、さらに19話では空撮との合成でブルードゲバルガの巨体を表現するなど、実景合成が効果的に用いられている。

また背景セットにも工夫が見られ、都市や田舎町といった似たような場所でもミニチュアの種類や配置、照明を変えることで別の場所に見せるようにしている。上記の実景合成や空中戦も合わせると毎回違った場所で戦っているということを映像から感じさせ、あの世界自体の実在感が高まっている。

ウルトラマンブレーザー

造形・アクション共にブレーザーはめちゃくちゃ私好みのウルトラマン。左右非対称の全体像に始まり、結晶体が飛び出た頭部、骨格が浮き出たようなフォルムに、赤青二色の遺伝子を思わせるライン。情報量は多いものの「生物的」という統一性があり、平成以降のウルトラマンの中でもかなり纏まったデザインだと思う。

頭部の傷らしき意匠や体の起伏に沿っておらずぐんぐんカットを見ても後天的に獲得したと思しきラインなど、意図的に違和感を盛り込んでいると思われるが、生物としてはむしろそれらの違和感が「自然」なものであり、その意味で万能の神故に左右対称である「ウルトラマン」とは対照的だと思う。

 

アクションに関しては敵を威嚇する、飛び跳ねるなど荒々しい所と、戦闘前の祈祷らしき独特のポーズや、肘や膝を多用し弱点を狙う容赦ない戦い方など文化や知性を感じさせる面もあり、総じて狩人っぽい印象がある。

またレインボー光輪、チルソナイトソード、ファードランアーマーなどを見るに、エネルギーや物質を武器に変えて使うことができると思われる。これまたモンハン狩人らしい設定で、苦戦が多いブレーザーが強敵相手に逆転できる理由付けにもなり、スパイラルバレードやレインボー光輪を変形させる(所謂「大喜利」)のは見ていて楽しい。そしてチルソナイトソードとファードランアーマーは最終話の「武装解除」に繋がっており、上手くドラマに活かされているのも良かった。

また本作は当初、ニュージェネ恒例のインナースペースが廃されたと思われていたが、第8話以降はブレーザーブレスを操作する手元だけを映した限定的な形で使用された。この手元インナースペース、本作が従来のお約束を廃した結果、却って残った少ないお約束が悪目立ちしているようで好きではなかった。だが、第14話のワンカット風演出に組み込んだのには感心したし、最終話には完全にやられた。ゲントの家族との絆を象徴するアイテムをブレーザーブレスと同じ左腕に集中させ、初めて顔を映すことで今までになくゲントとブレーザーの繋がりが強まっていることを端的に表現していて唸らされた。

 

そして、ブレーザーの特徴の中でも最も印象的なのが声。私はとにかくウルトラマンの声が好きで、ウルトラマンゼロ以降の声優や俳優の台詞と地続きのような感じよりは、昭和やティガ、ネクサスのような掛け声のみの声優が起用された人間とはどこか違う異質な声が好きだ。

それで言うとブレーザーは大好きだが、人間と違うとは言ってもどちらかというと獣っぽく、ウルトラマンの中でもかなり珍しいタイプ。巻き舌や叫び声、唸り声などとにかくうるさい。というかウルトラマンの声は飽くまで演出上のものだと思っていたのだが、明確に聞こえるものとして戦いにまで組み込んだ例は初なのではないか(技として使った前例はジードがいる)。

それに加えブレーザーは地球語が喋れない。田口監督曰く「宇宙人が地球語をしゃべるわけがない」とのことで、本作がSFとして考証を徹底した影響もあるようだ。彼と会話が成立しないからこそゲントやSKaRDは彼の行動を観察し、彼らの関係性の変化がドラマになっていて面白い。そしてその積み重ねの成果が、最終話でブレーザーが初めて地球語を発するあの感動的な瞬間である。

 

少し脱線するが、私はヒーローというものは「何処からともなくやってきて助けてくれる存在」と考えており、つまりは「都合のいい他者」だと思っている。なので程度問題ではあるが、実は私はヒーロー個人の人格を掘り下げるようなドラマには基本的には反対。宇宙から来たウルトラマンと変身する人間が別人格な融合系ウルトラマンは特にそうだ。

だから私は、人間とウルトラマンが対面し、ウルトラマンの他者性が際立つシーンが大好きなのだ。特に『ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT』や本作最終話のように、現実世界で大きさに差がある状態で向き合うのがたまらなく好き。

『Z』でのインナースペースや、本作での手を取り合うシーンなど同じ等身で向き合うシーンもそれはそれでいいのだが、超越存在であるウルトラマンが人類に目線を合わせてくれているようで、対等ではないと感じるのだ。

話を戻すと、あのシーンは私の知る限りウルトラマン史上で最も真摯に人間とウルトラマンの対話を描いており、本作のテーマである「コミュニケーション」の一つの到達点でもある。間違いなく本作のベストシーンだと思う。

SKaRDとアースガロン

本作のドラマの中心となるのが主人公のヒルマ・ゲントと彼が率いる特殊部隊・SKaRDの面々。どのメンバーも抑え目の演技で実在感のあるキャラクターになっており、個人的にとても好みのチームだ。

ゲントはウルトラマン変身者としては珍しく、特殊部隊の隊長かつ妻子持ちである。その立場上彼は上司と部下、家族と仕事、人間とウルトラマンなど様々な板挟みにあっている。責任ある立場故に決断を下さねばならないが、その結果として彼は何度も家族やハルノ参謀長、そしてSKaRDのメンバーを裏切るような形になっている。この決断力の表れが「俺が行く」なのだが、ある意味これは板挟みへの思考放棄ともいえる、少し危険な考え方だと思う。そして、そのある意味孤独なゲントが言葉の通じない相棒と手を取り、部下に仕事を任せることができるようになったのは、テーマに沿った確かな成長だといえる。

ここが本作の面白いところで、テーマであるコミュニケーションを「話し合って解決する」という安易なものではなく、むしろほとんど上手くいかないものとして描いている。誰よりもコミュニケーションに難を抱える人間を主人公にし、その難しさを端的にしかしリアルに描き続けるのはなかなか挑戦的だと思う。何せ爽快感がない。しかし同時に、それらの困難を経てたまに上手くいった時の喜びもまたリアルなもので、そのコスパの悪さ」こそが現実のコミュニケーションの本質を捉えているようでかなり共感できた。

これは他の4人のメンバーも同様であり、大切な相手と満足に意思疎通が出来ないままに終わるエピソードが彼ら全員にある。それでも彼らは自分なりに思いを向けたり受け取ったりして、それを自分の一部にして成長していることが第24話の自由行動シーンで示される。とはいえメンバー同士はウェット過ぎない範囲で仲良しになっていくので全体的に雰囲気は良く、関係性が徐々に変化していくのも見ていてほっこりする。

 

そしてアースガロンについては、『Z』以降の防衛隊ロボット初のオリジナルデザイン(明らかにメカゴジラを意識してはいるが)であり、複座式コクピットやハンガー、出撃シークエンスの描写に今までとは段違いに力が入れられており見応えがある。

戦闘での活躍はウルトラマンのサポート的役割が多く単独での怪獣撃破が少なく、これには不満を唱えるファンも少なくない。私も不満がないと言えば嘘になるが中盤からはそういう作風だと受け入れたし、だからこそ第21話でウルトラマンの領域である空でアースガロンがウルトラマンと対等な活躍を見せることの感動がひとしおだったというのもある。どちらかというと、早くに行動不能になりブレーザーの前座となる流れが定着していたが、最終回の展開を考えるともっと堅牢さをアピールして欲しかった。また、V99由来の技術であることも、事前に布石を置くことは出来ただろう。

戦績の奮わなさに関してはハルノ参謀長が繰り返し「ブレーザーより先に怪獣を倒せ」と言ってるのがノイズになってしまっていると思っていた。しかし最終回を経て、実はこれは作品の方向性に沿ったものだったと考えるようになった。

 

劇中でSKaRD及びブレーザーは何体かの怪獣を見逃しているが、この基準は「破壊活動をしようとしているか否か」だと私は読み取った。ドルゴやデマーガは暴れている理由が人間側にあり、ガヴァドンは被害は出してしまったものの本人の意図するところではなかった。そして最終話でのV99迎撃ではなくヴァラロンへの対処を優先するテルアキの判断が「良い」のも被害を抑えることを目的としているからである。つまり、参謀長の命令を達成するしない以前に、「怪獣を倒す」という目的設定自体が間違いということだ。

ただこれは正直言ってかなりわかりにくかった。まず参謀長の発言はウルトラシリーズ恒例の「地球は人類自らの手で守るべき」論でもあり、さらに曲がりなりにも直属の上司の発言なのだからこれが「正しいもの」と受け取られても仕方がない。

また「被害を抑える」ことがSKaRDの目的だというのもわかりにくい。まあ「防衛」隊である以上当然と言えば当然なのだが、作中で「命を守ること」を目的にしているとわかる(と思われる)のはゲントとブレーザーで、SKaRDに関しては明言されてない。

そして、(これが一番の手落ちだと思うが)本作は守るべき一般市民の描写がかなり少ない。ヒーロー作品には一般市民を守る描写は必須だと私は考えているのだが、本作は人間ドラマがSKaRD周囲に偏っていたため一般市民の印象が薄くなってしまった。

ただそうは言っても、「命を守る」という理念が作中で一貫しているのは立派で、それを読み取れなかったのは私の落ち度。対V99用兵器として作られたはずのアースガロンが彼らとの対話に使用されるのもその理念に完璧に沿った展開だと言える。

そして何より、私は第3話の時点でアースガロンの玩具代の元は取れていると言い切れる。それだけアースガロンの出撃シークエンスと初戦闘には満足させてもらったのだ。

本作が描いたコミュニケーション

V99については序盤から謎が撒かれつつ中盤以降纏められていくが、基本的にはよくわからない存在。事実と言えるのは、1999年にドバシがV99の船を撃墜したことと、V99が3体の怪獣を地球に送り込み、最後に船団が飛来したということだけである。しかし、本作のテーマを鑑みればV99はこれで良い。わからないままに思い込みで攻撃することを否定し非暴力による停戦を描くためには、むしろわからない方が良い

 

本記事でも幾度となく「コミュニケーション」に言及しているが、この表現は曖昧過ぎるのでここでより具体的にしておきたい。本作における「コミュニケーション」とは、知らないものを「知ろうとする努力」であり、わかったふりをして「決めつけること」の対極にあるものだと私は考える。(多分に私個人のコミュニケーション観も入っているが。)

本作は人間とウルトラマン、人間同士のコミュニケーションだけではなく、人間と怪獣とのコミュニケーションも描いている。『コスモス』のような和解や『X』のような対話こそないが、人間とは異なる怪獣の生態を科学的に分析し知ろうとすることもまたコミュニケーションである。(だからこそ、被害を出そうとしていないのに、怪獣だから悪と決めつけて排除することはきちんと否定されている。)

また、考証を徹底的に重ねるSFというジャンルの在り方は、それ自体が知ろうとする努力そのものである。「コミュニケーション」というテーマはドラマパートに限らず、SFを志向する本作の根幹と密接に結びついているといえる。

 

そしてここまでコミュニケーションの難しさをあらゆる角度から描いてきた本作が、クライマックスでV99に対する非暴力交渉という理想主義に振り切れる。これが本当に素晴らしいと思った。

そもそもヒーローもの、ましてやアクションが前提にある特撮ヒーローで非暴力を描くのは難しい。暴力は平和とは相容れないのに、平和を目指す手段として暴力を振るうという矛盾を特撮ヒーローは常に抱えている。それこそドバシはV99との争いの元凶ともいえる普通のヒーローものなら罰されるべき人物だが、本作では彼は罰されることなく終わる。誰かに責任を押し付けることは次の争いの火種になり得るので、(この瞬間だけでも)徹底した非暴力を描くにはドバシを罰して満足してはいけなかったんだと思う。

罪(と見做せるもの)を罰しないというのはヒーローものとして倫理的に危ういところもあるし、作品のほかの部分との整合性が取れていないと感じる所もあり、そもそも攻撃を仕掛けてくる相手に非暴力で応じるのはあまりに非現実的でもある。しかし、コミュニケーションの難しさと向き合い続けた本作だからこそこのメッセージに説得力が生まれるのだと思う。ドラマとしてのバランスを崩し、カタルシスを削いでしまうとしても、やはり私はフィクションだからこそこの非現実的な理想を描く価値があったと思う。

おわりに

ここまで長々と書いてきたが、本作には不満も多い。先述の参謀長の台詞やドバシの悪役ムーブ、ゲントの体調不良などが思わせぶりなだけで解決しない、アースガロンがV99由来なのが唐突かつ都合が良過ぎるなどシナリオ的に気になる部分が多い。またこれも先述したが、ブレーザーとのかかわり方がゲントとSKaRDで度々混同されているように見えるのも気になった。どうせならSKaRD個人個人のブレーザーへの印象の違いが反映されたドラマも観たかった。あと、特撮ヒーローものとしての盛り上がりが必要なのはわかるし、実際に私もノリノリだったけど、やはりヴァラロンは連れて帰って完全に停戦で終わらせて欲しかった!

 

しかしこれらの不満を考慮しても、私は本作が大好きだ。防衛隊と人間、怪獣とウルトラマン、そしてSFとしての作品の在り方の全てが『コミュニケーション』というテーマに集約される構造とその末に描かれた理想は本当に素晴らしかった。文句なしで個人的ベストウルトラマンのひとつになりました。この作品を作ってくれた方々に心から感謝します。

『ゴジラ-1.0』感想:破壊神ゴジラの新たな雄姿

今回は遅ればせながら『ゴジラ-1.0』の感想。

正直この作品はあまり気が進まず先送りにしていたのだが、年末に『ゴジラ』(1954)を観たこともあり、正月休み最終日を利用して行った。

気が進まなかった理由としては、インターネットで見られる一部のファンによる過剰な持ち上げと、擁護派による(筆者から見れば至極真っ当な)批判への抑圧がとても嫌な感じだったから。鑑賞後の今でも、批判は妥当なものだったと思っている。

こうは言いつつも、全体的な感触としては結構楽しめた。普通に見て良かったと思える。これだけ迫力のある怪獣映画が日本で作られ、海外でも高い評価を得ているのは素直に嬉しいが、同時に見過ごせない問題も多々あると感じたのでこの記事で消化したいと思う。当然ネタバレ全開なのでご注意。

 

 

 

 

 

デカい・コワい・カッコいい、三拍子揃ったゴジラ

山崎貴が白組所属故に調整がしやすいのか、かなり大胆に近距離からゴジラを映しており、ゴジラの大きさが際立っていて良かった。またかなり良く動き、2014年のギャレス・エドワーズ版以来のCGゴジラの中でも最もCGの利点を活かしているように感じた。

シン・ゴジラは人間とは比較にならない巨大さで移動するだけで被害を及ぼす災害のようなものだったが、マイゴジは人間との対比で大きさが強調され、積極的に人間に襲い掛かってくる獣として描かれており、かなりわかりやすく差別化されている。

また地上での破壊シーンに顕著だが、建物の瓦礫やゴジラ自身にもあまり重量感がなく、街を含め全体的に作り物っぽい。私は基本的に着ぐるみやミニチュア、実写合成の特撮が好きなのだが、今回は意外にもファンタジー的タッチのゴジラとしてこれはこれでアリだと思った。ゴジラが傷つき再生する様や、放射熱線で背びれが動くギミックも着ぐるみとはかけ離れたもので、独自のゴジラ像が確立されているのではないかと感じた。

 

本作のゴジラ登場シーンの中でも素晴らしいのがメインとなる海上でのアクション。ゴジラが元々海洋生物であることを思い出させる悠々とした泳ぎっぷり、中でも新生丸とのチェイスシーンは船や軍艦との大きさの対比に、敷島たちがゴジラに一矢報いる工夫が光り、ゴジラが再生する絶望感もあり本作でも一番の見所だと思う。

ゴジラ以外にも、戦艦や戦闘機についても造形・アクション共にかなり楽しめた。筆者はミリタリーにはど素人で知識は皆無だが、あれだけディティールのしっかりした戦闘機・戦艦・ボロ船がゴジラと対峙する様は見ていてとても興奮するものだった。

 

不満点として、全体的にゴジラの登場シーンが短いことが挙げられる。短いというよりもほぼ毎回唐突に現れて唐突に帰っていくのでどうにもダイジェスト感があり、どのシーンも見ていて少し物足りなかった。せっかく魅力的なのだから、もっとゴジラをたくさん見せて欲しかった。

また前述のように今回のゴジラは積極的に人間を殺しに来るのだが、その割に血や死体が画面に映らず嘘っぽく見えてしまうのは気になった。恐らく年齢制限を回避するためだろうが、それならば敢えて人を噛んだり踏みつぶしたりする描写を入れなくてもよいのではと思ってしまった。

結果的に戦争を肯定してしまう論理

ドラマは全くと言っていい程楽しめなかった。

山崎貴お馴染みの説明台詞と過剰な演出は健在で、せっかくの俳優陣の演技の余韻をことごとく壊していく。映像から読み取れる情報を逐一説明し、あらゆる感情を過剰に表現するから一本調子で見ていて辛くなる。ただ、数少ない説明台詞無しのシーンの一つに敷島の慟哭シーンがあり、あのシーンだけは言葉もない敷島の激情が表現されていて良いシーンだと思う。

 

ストーリーにもかなり文句があるのだが、何よりも信じられなかったのが本作が仮にもゴジラなのに(少なくとも部分的に)戦争を肯定してしまっていること。

海神作戦の会議中、ある元海軍と思しき男が「また俺たちに船に乗れと言うのか」と発言する。参加は強制ではないことを告げられ、彼は会議室を去る。その後、また別の人の発言をきっかけに「無駄死にではない」「守るためだ」「誰かが貧乏くじを引かなくてはならない」という理屈で多くの人間が作戦への参加を決めるが、最初の一人が唱えた「また戦争をするのか」という疑問はこの後一切議論されない

作戦立案者の野田によって「人命を軽視しない作戦」にしようとフォローは入るが、敷島は脱出装置取り付け前から戦闘機に乗る気満々、兄貴分である秋津は年若い水島を作戦から外すなどこの作戦に命の危険が伴うことは明らかで、野田のフォローは詭弁でしかない。その上で、再び戦地に望む兵士たちを「活き活きしている」と肯定的に描いてさえいる。

 

勿論、特攻隊員の犠牲を描き第二次世界大戦という特定の戦争の悲惨さ、それを起こしてしまった旧大日本帝国を批判的に描くことで「反戦」を訴える日本映画の文脈はあるだろう。また、攻撃を受ければ自衛のための戦争がやむを得ない場合もあるだろう。しかし、戦力の行使という手段を取った事自体への批判が全くなく、単なる防衛戦争とはまるで意味が違って見えた

元軍人を集め、戦艦や戦闘機を調達しながらやたらと「民間」を強調し、前述のように「ましな戦争」があるかのように錯覚させる語り口は、むしろ戦争を始めるための大義名分にさえ聞こえる。これが戦争に臨む国家の異常な空気感への皮肉ならまだ理解できるのだが…。

 

ただ個人的な推測だが、この戦争に関するスタンスに山崎貴の思想が強く表れているというよりは、「ゴジラと旧日本軍の戦闘」という見せ場ありきで、大衆ウケが良いように「反戦」っぽいラッピングを施しただけではないかと思う。

しかし、『ゴジラ』(1954)では大量殺戮兵器を使用する代償として、その兵器の開発者である芹沢博士は自らの死を以て兵器を封印する。『シン・ゴジラ』(2016)では鉄道や重機などのインフラと科学技術を使用しゴジラを凍結する。同じ戦後昭和の時代設定であり元祖である『ゴジラと、最も近い時期に日本で作られた『ゴジラが、わざわざこれだけ徹底的に戦力の行使を忌避していることと比較して、本作は「反戦映画」としては不徹底だと私は考える。

敷島に都合の良すぎる物語

またキャラクター造型にもかなり不満がある。特に主人公である敷島について、本作のドラマは完全に彼を中心に展開されるが、それを差し引いてもかなり彼に都合よく周囲の人間が動かされているのが気になった。

野田は作戦会議の途中で去ろうとする敷島を会議を中断してまで引き留め、彼のために戦闘機を用意するなど敷島を高く評価している。しかし敷島は訓練の成績は良いとされているが、実戦経験はないため野田から見て彼の実力を判断する材料はなく、この評価は不自然である。(新生丸で機銃の腕前を見てはいるが、操縦に関しては未知数のはずである。)

また敷島の要望でかつて大戸島の悲劇を共に味わった元整備兵の橘を作戦決行を延期してまで捜索しているが、これははっきり言って大戸島でのトラウマを解消したい敷島のエゴであり、作戦よりも一兵士のエゴを優先する理由はない。橘はどうやら整備兵として凄腕らしいが、(観客にとっても敷島にとっても)それがわかる描写は劇中には見当たらない。

そもそも彼は典子、明子への接し方や橘の呼び寄せ方などトラウマを抜きにしても人格に問題があるように見えたので、そんな彼が人望を集めていること自体違和感がある。

 

筆者は浜辺美波が割と好きなので、典子の扱いの雑さも見ていて辛かった。当初は他人の子供を連れたガサツな女として登場するが、間もなくガサツさはどこへやらいかにも昭和的な貞淑な妻に変貌する。飲み会の場面に顕著だが本当にジェンダーロールが酷く、これが令和の映画なのかと目を疑った。これに関して「昭和の実情を忠実に描いているだけだ」という意見も見るが、実情の再現自体ではなくそれを女性がどう感じているかを描写しないことが問題で、その「女性の視線の排除」という図式もまた昭和的という入れ子構造になっていて本当に救いがたい。

また彼女は敷島が危険を伴う仕事に就くことに終始反対しており、終盤で敷島がゴジラを殺すために特攻も厭わなくなることに最も批判的な意見を唱えられる立場であった。しかしあろうことか、彼女は終盤を目前に退場させられ、敷島の覚悟を後押しする原因になってしまう。つまり男たちの自己実現のための戦争をを正当化するために、戦争で家族を奪われる女の悲哀を意図的に排除しているのだ。敷島が生き残った「ご褒美」として「生き返らせられる」ことも含めて、ご都合主義も甚だしく不愉快だった。

 

長くなったが一点だけ本作のドラマを擁護しておくと、本作のドラマの内容はシンプルで薄味なものだが、これは怪獣エンターテインメントとしては間違いではない。もちろんドラマ自体も見所として機能するに越したことはないが、本不要な要素が削ぎ落され深く考えさせる内容のない本作のドラマは、真の主役たるゴジラの活躍の大きなノイズになることはなかった。(削ぎ落して残った要素がそれかよ!というのがここまで垂れ流してきた批判である。)

そもそもこの映画なんなん?(余談)

この映画は敗戦直後の日本を舞台にしてはいるが、私はこの時代設定にそこまでの意味を見出せなかった。描写が敷島の周囲に偏っていることもあり、その時代の人々の生活感や風土が描かれないためどこか作り物っぽく現実感がない。極論、戦後の敗戦国という要素さえあれば異世界、あるいは歴史のIF(例:戦後も大日本帝国が存続した世界)と言われても頷いてしまいそうで、先述したゴジラの質感もあってこの作品はファンタジーだと感じながら観ていた。

 

この映画は海に沈んだゴジラが再生する様子が映されて幕を閉じ、エンドロールの最後にはゴジラのものと思しき足音が響き渡る。前者は『ゴジラ』や『シン・ゴジラ』に通ずる、ゴジラの脅威が終わったわけではないという描写だと言えるが、後者は異質だ。

この足音については様々な解釈ができるが、私はゴジラが再生を終え既に日本に迫っていると解釈した。「戦争そのもの」についての反省をせず、戦争のメタファーであるゴジラに戦争で応じるという間違いを侵してしまった日本は、これから無限に再生するゴジラという怪物との終わりなき戦争を強いられるということなのではないか。

正直これは本作のドラマに大きな不満があり、観ているうちに人間よりゴジラの方を応援していた私に都合のいい、偏った解釈である。実は作り手も本作のドラマの現実感の無さと欺瞞を自覚していて、最後にそれを否定し破壊したがったというのは、いくら何でも深読みし過ぎだと思う。

ここまで書くと誤解される可能性があるので一応弁明しておくが、私は日本が無抵抗でゴジラに破壊されればよかったと言っているわけではない。防衛戦争をするにしても、戦争を起こしたことそのものへの反省は明確にしなければならない、という主張である。少なくとも私から見て、文脈上「第二次世界大戦」「特攻」「大日本帝国」への反省ではあっても「戦争を仕掛けたこと」への反省といえるものは見当たらなかった。

おわりに

分量としては批判の方が多くなってしまったが、これでもこの映画には概ね満足している。それはひとえにゴジラのデカさ・コワさ・カッコよさによるもので、それは白組と密接な連携を取り最大限に力を発揮させられる山崎貴監督あってのものだろう。山崎貴監督、ゴジラを撮ってくれてありがとうございます。

『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』感想:マリオに限りなく似た何か

さて、新年一本目の記事は大晦日に鑑賞した『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』の感想。本当は『ゴジラ』の感想を先に挙げようと思っていたのだが、こちらの方が早く済みそうだったので。

2023年4月に日本でも公開され大いに話題になった本作、一応は任天堂ファンを自称する筆者も気にはしていたものの、食指が動かなかったので劇場へ足を運ぶには至らなかった。

今回鑑賞したのは(家族と過ごしてることもあり)大晦日に普段観るような辛気臭い映画を観るのも気が引けたので、「無難なファミリームービー」を求めたからだったのだが、大ハズレだった。ゲームをしない家族はもとより、そもそも引用や小ネタを楽しむ文化が希薄な我が家に、至高のファンムービーとでもいうべき本作はあまりに不向きだった。

以下、私個人の感想を述べていく。既に述べたように食指が動かなかった映画をわざわざ見る辺り当たり屋感は否めないので、本作が好きな人には読むことをお勧めしない。

 

ゲームを想起させはするが、超えはしない演出

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このトレーラーで映るのはごく一部と言っていいくらい、本作にはゲームのマリオシリーズに登場したキャラクターやアイテムがこれでもかと登場する。マリオ&ルイージ兄弟にクッパとピーチ姫のメインキャラ、さらにドンキーコングやモブキャラ的に大量に出るキノピオやノコノコなど。更にコインやキノコ、宙に浮くブロックなども登場し、アニメ映画の中にマリオの世界を作る要素が敷き詰められている。音楽もゲームの印象的なテーマの数々が引用されている。

また、アクション面でも「(スーパー)マリブラザーズ」シリーズや「レッキングクルー」、「マリオカート」シリーズそのままと言っていいシーンが上質なCGアニメによって表現されていて、確かにこれはなかなか楽しかった。特に最初のアクションシーンが伝統的な横スクロールを模しながら、舞台はブルックリンの市街地なので、単なるゲーム版の踏襲ではないオリジナリティが感じられて良かった。

 

だが、個人的に期待していたのは映画ならではの表現でマリオを描くということだったので、楽しかったのは間違いないのだが飽くまでゲームの再現止まりで、それならゲームをやればいいや、と感じてしまった。少なくとも私にとっては、「自分で操作できなくなったゲーム」だった。

一応補足をしておくと、筆者は初めて遊んだマリオが『スーパーマリオサンシャイン』(2002年、ゲームキューブ)であり「マリオは3Dなのが当たり前」という肌感があるため、上述の2D作品が3DCGアニメーションで立体的に表現されたことへの感動は比較的に薄かった、というのはある。

文法がアメリカ過ぎる

本作のストーリーはかなりシンプルなものだが、それでもゲームシリーズに比べると世界設定や人物造形は細かく提示される。ビデオゲームに比べ現代の大衆映画の方が求められる情報量が多く、ゲームを映画化する際には行間を補う必要があるのは当然だ。しかし、その行間を補うものがアメリカのアニメ映画にありがちなものばかりで、私は胸焼けしてしまった。

あの世界を異世界として、主人公が迷い込み魔王の打倒を目指すという王道ファンタジーもののプロットはまだいい。種族ごとに国が分かれているのもいい。キノコ王国の城下町の商店や銀行、移動用の土管などはテーマパーク的な楽しさがあるもののどこかで見たようなもので、王国がどう成立しているかさえあやふやな絵本的ミステリアスさを湛えた世界が陳腐化してしまった感は否めない。突然地面から土管が生え、人が飛び出してくるような不条理さは、本作のキノコ王国からは感じられなかった。

スーパーマリオ64』(1996、N64)のオープニング。

そしてそれ以上に違和感があったのが、表情や会話、キャラクターの性格、それにストーリー展開までもがアメリカのアニメに典型的な(それもかなり単調な)ものになっていること。

誰もがやる片眉を上げるおどけた表情や、キノピオの「かわいい」連呼や牢獄にいるチコ「ルマリー」の不安を煽る喋りなどつまらないのに繰り返されるギャグ。ストーリーも周囲からバカにされていた人の自己実現というありきたりなもの(これに関しては日本でもよくあるが)。洋楽の引用も雰囲気をファンタジーから遠ざけるばかりである。

元々筆者がそれらの要素が苦手というのもあるが、それを抜きにしてもゲームのマリオには欠片ほどもないものばかりであり、これが本作はマリオの映画化というよりも平凡な映画にマリオの皮を被せただけの何かだと筆者が感じた理由である。アメリカで育っていれば気にならないのかもしれないが。

生々しい暴力

映画用に補完されたマリオの世界で浮き彫りになったのが、マリオが本質的に秘めている暴力性である。

前提としてほとんどのマリオ作品は敵を倒して自分は倒されないようにする、つまり「やるかやられるか」のゲームであるという点で暴力的だと私は考えている。その暴力性は様々なコミック的描写(マグマに落ちれば尻に火が付く、クリボーを倒せば煙になって消える等)と、簡略な人格や設定によりデフォルメされている。しかし本作では前述のように大衆映画として成立するように行間が補われているためにこのデフォルメが弱まり、暴力描写が酷く生々しくなったと感じた。

特に何もしていないのにバナナの皮を踏まされてクラッシュする一般車、ドンキーコングにタコ殴りにされるマリオ、クッパに捧げられる生贄の面々。彼らにゲームキャラ以上の人格が備わってしまったことで、私はこれらの暴力にリアルな不快感を感じた。マリオがマグナムキラーを土管に入れたせいで、ブルックリンにはどれだけの被害が出たのだろう...。

 

それでいて、本作は死を描くことは意図的に避けているようにも見える。マリオで最も弱い敵キャラであるクリボーが踏みつぶされるシーンがたった1回しかなく、そのシーンでもクリボーは完全に潰れきる前に画面からフェードアウトする。

勿論、クッパに焼かれカロンになるノコノコ、ピーチに爆破されるボムキングなど、実際に死んだと思しきキャラがいない訳ではない。しかし、上述の暴力性にしては少なく、さらに前述のルマリーが繰り返し死を仄めかしてくることもありその少なさは不自然に感じられる。ゲームに比べて、行使される暴力とその結果が釣り合っているように見えないのだ。

結末への不満

私は本作のキャラクター造型を批判したが、実は好きなキャラクターが一人いる。クッパだ。歌を捧げ、照れながら何度もプロポーズの練習をする等ピーチへの想いは一途ながら、そのために特にピーチが望んでもいないスーパースターや生贄を用意したり、ペンギン王国を滅ぼしキノピオを拷問するなど残虐な行為も厭わない。これらの要素がナチュラルに両立されており、本作唯一といってもいい、現実の人間の価値観とはかけ離れた完全なファンタジーの存在だったと思う。(クッパはゲームでもマリオや味方キャラに比べて台詞が多いため違和感が少ないというのもある。)

 

そんなクッパは結局ピーチに強要したプロポーズを反故にされ、マリオには敗北し小さくされて鳥籠に閉じ込められる。ここに私は違和感を覚える。前述したように本作はバカにされた者の自己実現のストーリーだが、マリオがバカにされた理由の一つが低身長である以上、その敵であるクッパを小さくして終わり、というのは問題なのではないか。

そもそも単なる異邦人であるピーチが姫にまで祀り上げられるなど、本作は異世界を舞台にしながら人間優位の外見主義を感じさせる部分がある。(ゲームでも味方は人間、敵は非人間という構図ではあるので、これは異世界にしてしまった弊害といえる。)ピーチがクッパのプロポーズを断ったのは悪人だったからで、カメだったからではないと言えるのだろうか。

 

もちろんクッパが罰されるのはその悪行故ではあり、そうでなくとも交友関係もない人物からの突然のプロポーズなど受け入れられようはずもない。しかし、クッパとマリオの疑似的な共闘を描き、ピーチから袖にされた者同士としてマリオとの友情の芽生えさえ感じさせたスーパーマリオ オデッセイ』(2017、Switch)の後に見れば、これは革新的なエンディングとは言えない。本作のクッパが魅力的であるが故に、尚更残念である。

おわりに

本作はゲームのマリオシリーズを想起させる演出やクッパのキャラクターなどの魅力はあるものの、陳腐な設定やストーリー、暴力描写の生々しさなど問題は山積みであり、1本の映画として見れば個人的にはかなり不満が残る作品だった。

正直、本記事で挙げた問題点が全く気にならない、「そういうものでしょ」で片付けられる人は少なくないと思うし、この「1本の映画として」という前提自体がファンムービー的性質と相反する偏ったものだという自覚もある。ファンムービーと単体の完成度を両立した作品が1本でも多く作られればいいのだが。

しかし、マリオをやりたくなったことは間違いない。この記事も『スーパーマリオブラザーズ2』(1996、ファミリーコンピュータ)と『スーパーマリオ64DS』(2004、DS)を遊びつつ書いているし、まだ触ってない『スーパーマリオブラザーズ ワンダー』(2023、Switch)も遊ばなければという気持ちになった。そういう意味では販促としては機能しており、観た意味は十分あったと言える。

明けましておめでとうございます。

皆様、新年明けましておめでとうございます。

本年もよろしくお願い致します。

 

昨年は私にとって変化の年と言え、多くのものを失い、そして新たに得ました。

しかしそのどれもが、未だ実を結んだとは言えません。

今年の干支にかけ、昨年私の中に生まれたくさんの未熟な鯉が龍となるよう、一層努力して参ります。

このブログでの文章もその鯉の一匹です。

元々更新頻度が少ないうえ、昨年後半は『ウルトラマンブレーザー』毎話感想も頓挫しほぼ記事をアップしていない状態でしたが、それでもまだ続けたいという気持ちは変わりません。

まずは記事を投稿する所から始めようということでこの新年の挨拶でした。

 

改めて、この記事を読んでくださる方がいれば、本年もどうぞ末永くよろしくお願いいたします。皆様にとっても私自身にとっても、良い一年となりますように。

『スター・ウォーズ』続三部作 感想

最近ディズニープラスで配信が始まった『アソーカ』を観始めたのだが、これが結構面白い。高まったスターウォーズ欲は行き場を求めて、ついに未見だった続三部作へと私を導いた。公開時は色々と言い訳をして「全部終わったら観る」と言いつつ、終わってみれば悪評が眼に付いて避け続けたシークエル・トリロジー。途中で挫折しないか不安だったが、そこは問題なく思ったよりサクサク観ることができた。

感想に入る前に2つだけ釈明したい。まず私はスター・ウォーズに関して、映画シリーズ(新旧三部作)と外伝は『オビ=ワン・ケノービ』だけを観た程度で、知識・造詣は深くないので、考察や設定理解に間違い・思い違いが多々あるかもしれないこと。

次にこの続三部作について、大まかな内容は知ったうえでの鑑賞であること。特に7、8は次にどうなるかを知ったうえでの鑑賞なので、リアルタイムのそれとはかなり違う印象になったはず。

さて、それでは感想に入っていこう。

スター・ウォーズ エピソード7 フォースの覚醒』

©2015 ウォルト・ディズニー・スタジオ・モーション・ピクチャーズ

エピソード6から数十年後を舞台に、新キャラクターと旧キャラクターが共演、帝国の再興を企む「ファースト・オーダー」との闘いが描かれる一作目。監督はリブート版『スター・トレック』シリーズのJ・J・エイブラムス

初っ端から申し訳ないが最低だった。この感想は3作観終えたうえで書いているが、3作中最もつまらないと思う。

唯一良かったのが、新キャラクターと彼らを演じる俳優。特にフィンについて、スカイウォーカー・サーガが終わった今、名前すら持たない彼が物語を進めるというのが面白い。カイロ・レンは悪に振り切れないままに父を殺し後戻りが出来なくなるのがよかった。ポー・ダメロンに至ってはただのパイロットに過ぎないのに俳優の演技だけで魅力的なキャラクターに仕上がっており、フィンとポーの掛け合いは三部作通した数少ない魅力の一つだった。

しかし、レイの造形はお粗末だと感じた。明らかな「何かある感」が目立って、故郷とは違う景色に驚いたりハン・ソロやフィンに家族を求めたりする人間的な面を見せても乖離を感じてしまい乗り切れなかった。ほとんどのピンチを彼女の才能頼みで切り抜けてしまうので、前述のフィンやポーの「無名の人々の物語」を殺してしまっていると感じた。

映像面では盛り上がりに欠け、楽しめる点が少なかった。格闘戦もドッグファイトもメリハリがない。(ただし、レイとフィンが初めてミレニアム・ファルコン号に乗るシーンは良かった。)フィン対カイロ・レンはドラマ的に熱いシーンではあるが、直後にレイにお株を奪われてしまうのが残念。

そして個人的にノイズだったのが旧三部作を意識したような設定・描写の数々。新しいものを期待していたというのもあるが、そもそも旧三部作に寄せることに作劇上の意味が見出せなかった。特にファースト・オーダーは問題だらけだと思う。たった数十年で新共和国が劣勢になるほど帝国軍が再興できるのなら、スカイウォーカー親子やレジスタンスの功績は無意味であり、そればかりかこの三部作でファースト・オーダーを打倒するという目的さえ茶番になる。続三部作が「ファースト・オーダー(あるいはその黒幕)を打倒する」以外の結末を設定できたのなら問題ないのだが...。

以上、新キャラクターは魅力的なものの単体の作品としては魅力に欠け、旧作ファンへの目配せがキャラを含む新しい世界のノイズになっており、中途半端な出来になっているという感想だ。

これだけなら三部作中最低というほどか?とお思いだろうが、一貫性がなく迷走を続けるという続三部作の結末を知った上で観るとそれどころではない。つまりエピソード7の時点では終わらせ方を考えておらず、本作は深く練られていない設定と旧作への目配せだけで出来た浅薄な作品に見えて、自分は何を観ているのかと空しい気持ちになってしまった。

ただ当時の感想を見ると、三部作の導入として高く評価する声も見られるので、私が三部作の結末を知っているが故にこのような感想になっているのも間違いない。

『スター・ウォーエピソード8 最後のジェダイ

©2017 ウォルト・ディズニー・スタジオ・モーション・ピクチャーズ

レイがルーク・スカイウォーカーの元でフォースの修行を積み、レジスタンスとファースト・オーダーが本格的に衝突する第2作。監督は前作から代わり『LOOPER』のライアン・ジョンソン(脚本も兼任)。

三作中一番楽しかった。

前作にはないビジュアル面での迫力、特に止め絵の決まり具合がいかにもライアン・ジョンソンで見応えがあった。特にカットの切り替えだけでレイとカイロ・レンがまるで同じ場所にいるかのように錯覚させる二人の感応シーンは、ちゃんと新しい独自のスター・ウォーズ観を見せてくれていると感じた。

そして本作最大の特徴が、あらゆるものの裏をかこうとする逆張り精神である。

やることなすこと全部が上手くいかない、逆ご都合主義のような展開も喜劇として見れば1回目はとても笑えた。短期的なちゃぶ台返しやナンセンスなギャグを乱発する悪趣味な爽快感は、これも私が知るライアン・ジョンソンらしさと合致する。長いわりに冗長な感覚がなくテンポ良く観られたのもビジュアルの良さと短期的な刺激の多さ故だった。

また、前作エピソード7が(僅かながら)積み上げたものや旧作スター・ウォーズ、果てはハリウッドの多様性キャスティングなどあらゆるものをバカにするかのような要素が随所に見られるのも、1回目は楽しかった。というのは私は前作エピソード7の旧作オマージュに主体性が感じられず不満だったので、全方位に喧嘩を売るような本作のありようの方が見ていて清々しいと感じたからだ。

ストーリーに関しては、レイの正体がただの一般人なのが良かった。エピソード7の感想でも述べている通り彼女の「何かある感」は私にとってノイズでしかなかったというのもあるが、そんな彼女がスカイウォーカーの末裔であるカイロ・レンに匹敵するという事実は、色々と面白く解釈できると思う。レイアの覚醒やラストシーンで奴隷の少年がフォースに目覚める描写を見るに、フォースのバランスが崩れ、確立されるまでを描いた旧6作に対し、今後はあらゆる人がフォースに目覚めるカオスの時代が訪れると思うとかなりワクワクした。

しかし、ここまで読んでもらえればわかるように、私が本作を楽しめた理由の大半はエピソード7が大嫌いだったからにほかならず、1本の映画として、三部作の二本目として見た本作の出来は褒められたものではないと思う。

ストーリーは盛り上がりを作るためだけの展開が敷き詰められており、長いわりに進展がない。逆張り要素に関しても迎合と反発という方向性の違いはあれど、結局は旧作に囚われているという点でエピソード7と大差なく、そういう意味で本作にも主体性はない。この辺の問題点は刺激に慣れてしまった2回目以降の鑑賞に顕著に表れ、「自分は何を見せられているのだろう…」という虚無感に苛まれた。

エピソード7と一貫性が感じられないのも結局は問題が大きく、2作合わせて5時間近くかけても地に足のついていないシリーズというのは見ていてストレスがたまる。特にエピソード7の数少ない魅力だったフィンとポーの二人が本作では無能なコメディリリーフになってしまったのはかなり不満が残る。

以上、ライアン・ジョンソンの手腕で刺激と逆張りに溢れた本作は1回目の鑑賞こそ楽しかったものの、主体性の無さというエピソード7同様の問題点を内包してしまっており映画として面白かったとは言えない、残念な作品という感想だ。

スター・ウォーズ エピソード9 スカイウォーカーの夜明け』

©2019 ウォルト・ディズニー・スタジオ・モーション・ピクチャーズ

前作で壊滅的な打撃を受けたレジスタンスの再起と、復活した皇帝パルパティーンとの決着が描かれる第三作にして完結作。監督はエピソード7からカムバックし、今回は脚本も兼任するJ・J・エイブラムス

はちゃめちゃに酷かった。エピソード7・8の悪い所を兼ね備え、より悪化させた大駄作。

エピソード8同様の盛り上がりのためだけの展開は見ていて空しい。これだけでなく、前作の展開を無視しているという点でもエピソード8と共通で、まるでプロダクション内のゴタゴタをそのまま見せられているかのようで徒労感がある。

そして黒幕は蘇った皇帝パルパティーン。エピソード7が可愛く見えるほどの主体性の無さもさることながら、復活に特に理由も伏線もないため逆算してエピソード7の時点で構想が固まっていなかったことが浮き彫りになってしまい余計にげんなりする。

シナリオの問題点などはもはや指摘しだすとキリがないが、何よりもまずいのは監督が同じはずのエピソード7唯一の功績であるキャラクターの魅力さえもが失われている点だろう。フィンに新しいヒロイン、ポーに過去、レイに血縁という箔をつけることに終始する本作はキャラクターの可能性を全く信じていないと感じた。

ここまでボロクソに言ったが、これでも私にとって三部作中最低はエピソード7である。エピソード9は酷さが突き抜けた珍品として興味深く観ることができるからだ。

以上、旧作の大きすぎる影に振り回され迷走した前2作の収拾を着けるどころか、さらに問題を上塗りし三部作全体の評価もさらに下げてしまった完結作だった。

総評

ここまでけちょんけちょんに貶しておいてなんだが、視聴したこと自体は後悔していない。スター・ウォーズほどの巨大なIPでこれほどまでの大惨事を見ることができたのも、それはそれで貴重な経験だったからだ。キャラクター・ストーリーに一貫性がない三部作というのもなかなか珍しく、見ようによっては互いに反発し合ってるのが三作すべてに共通する点だと言えるかもしれない。

また、『アソーカ』に始まる私のスター・ウォーズ熱を高める要因になった点では感謝すらしている。本三部作への不満の行き場を求めて『マンダロリアン』を観始めたので、その感想も追々書いていきたい。

『機動戦士ガンダム 水星の魔女』シーズン2及び総括感想:ストーリーを作るのは誰か

7月2日、『機動戦士ガンダム 水星の魔女』の最終回が放送された。前日譚に当たる『機動戦士ガンダム 水星の魔女 PROLOGUE』の公開が昨年の7月14日なので、この番組は1年かけて展開してきたといえる。アニメ本編は全24話だが、シーズン1と2の間の3ヶ月間もWEBラジオや複数回の特番、小説版の発表など宣伝は絶えず注目を集め続けた。

私もシーズン2を心待ちにしていたのだが、実際に見ての感想は…。

PROLOGUE及びシーズン1の感想はこちら。

teapillar.hatenablog.com

teapillar.hatenablog.com

以下ネタバレ注意。

 

 

 

 

 

 

対話なしの免罪

第1話時点でミオリネとグエルは父親の支配下にあり、シーズン1を通して彼らは支配から抜け出そうとそれぞれもがいてきた。そして、主人公であるスレッタもまた母プロスペラの支配下にあったことが判明したところでシーズン1は終わった。

シーズン2では彼ら、特にスレッタが親とどう向き合うかが描かれることを期待していたが、消化不良だった。ミオリネとグエルは親の支配によって苦しんでいたにもかかわらず、大した葛藤もなく親の仕事を引き継ぐ。スレッタは母が自分ではなくエリクトのみを本当の子と見做していると気付きながら、それでも母を想い行動する。

3人全員が親を受け入れること自体もだが、何より違和感があるのは彼らが第三者から聞いた情報だけで勝手に納得し、親との碌な対話もないままに親を受け入れる。だから親たちは自身の所業を省みて謝罪する場面もなく、なあなあで良さげな雰囲気になる。

そしてラストシーンについて。スレッタは水星に学校を作るという夢を叶え、地球にも新たに学校を作ろうとしている。また、ミオリネは地球で起こっているデモの調停を行う様子が描かれている。そして、スレッタとミオリネは正式にパートナーとなり、二人とも幸せに暮らしているように見える。

しかしスレッタは最後の決戦の後遺症でプロスペラ同様に身体に障害を負っており、ミオリネの行動も総裁選前の事件の償いをしている形だ。彼女たちは大人になった後も親の負債を抱えたままだ。そしてその両方の元凶となったプロスペラは許されている。この点において私は、いくら当人たちが幸せそうにしていてもこの結末がハッピーエンドだとは到底思えなかった。

ただ、ベルメリアとエラン(5号)の関係は例外といえる。エラン(5号)はベルメリアが人体実験に関与してきた事実を突きつけ、被害者として振舞おうとするベルメリアの偽善を許さなかった。ベルメリアは自身の生き方を後悔しつつも、最終的にミオリネなど若い子供たちを守るために銃をプロスペラに向ける。すべてが終わった後エラン(5号)は強化人士の役目から解放され旅に出る。親は子への仕打ちを反省し子は解放され自由になるという形で、メインキャラたちとは対照的である。ここで肝なのはベルメリアはエランから許されたわけではないこと、さらに言えばそもそもベルメリアを好きな人物が特にいないことで、彼女は誰かに許されるためではなく自分自身のために必死で償いを行ったのだ。謝罪もなしに勝手に許された親たちとは正反対である。何故サブキャラクターで出来てメインキャラで出来なかったのか。

持て余されたキャラと設定

シーズン2では元々多かったキャラクターがさらに増え人間関係が複雑化したが、処理しきれていないと感じた。シーズン1ではスレッタとミオリネの2人が軸になっていたが、シーズン2ではこの2人がドラマに関与しないことが多かった。そのため終盤のスレッタがキャリバーンに乗る展開や、スレッタとミオリネが結ばれることにさえ説得力が感じられず形式的なものに見えてしまった。

また、多くの重要な設定の描写が不足しているため、キャラクターの目的が判然としない。特にクワイエットゼロの実態がまるでわからないのが致命的で、デリングのものとプロスペラのものがどう違うのか、プロスペラの言う「エリクトが幸せな世界」とはどういう状態なのか、それがどうして多くの人々の命を危険に晒すのか。これらすべてが示されないまま引き継ごうとしたり止めようとしたりするので訳が分からない。

また、シャディクをはじめ多くのアーシアンが問題視している宇宙と地球の格差をまともな説明がなされぬままだ。格差の原因と思しき戦争シェアリング、それを形成したベネリットグループや調停機関の宇宙議会連合、その他さまざまな要素が不明瞭である。にもかかわらず地球を舞台にしたエピソードは全25話中たったの2話で、私が上記のキャラクターたちに寄せられる共感もそれ相応のものになってしまった。

ガンダムの呪いの行方

ガンダムエアリアルは私にとって本作を見る最大のモチベーションの一つだった。ガンダム以外も含めた過去のロボットアニメの要素を備えつつも綺麗にまとまったデザイン、穏やかなスレッタに似つかわしくない無慈悲な戦い方、スレッタと会話する人格の謎など魅力に溢れていた。しかし、ここに関してもシーズン2はうまくやっているとは言い難い。

そもそも、改修後のエアリアルは目立った活躍がない。12話でのガンビットライフルは敵を撃墜しておらず、14話ではフィールドを展開しただけでソフィが自滅。そして18話における、婚約者、母親、対戦相手、そして乗機エアリアル自身までもが加担したスレッタにあまりにも酷な八百長試合を最後に主人公機としての登場はない。エアリアルの後継となるキャリバーンの扱いも酷いもので、登場が22話と非常に遅い。さらに、実際に参戦するタイミングがほぼ同じシュバルゼッテと違い事前に名前や姿が示唆されることもなく、かなり唐突に登場するので愛着も沸きづらい。魔女の箒を模したデザインは非常に魅力的なのに勿体ない。

シーズン1は戦闘シーン自体は少ないながら、その活躍がエアリアルに集中していたため瞬間的な熱量は高く、個人的には満足していた。しかし、前述の通りシーズン2ではエアリアルはほとんど活躍しない。戦闘の内容自体も決闘の爽快感に代わる楽しみを提供しきれていないと感じた。中盤の実質的な主人公であるグエルとともに戦ったダリルバルデが悪いわけではないがそもそも本作は「ガンダム」であり、そこを覆すほどの魅力やドラマ的必然性は感じられなかった。

謎に関しても不透明な部分が残っている。例えば、エアリアルに宿ったエリクト以外の人格、カヴンの子に全く意味がないこと。まずシーズン1の段階からガンビット一つずつに人格が宿っていることが示唆され、実際に11人のリプリチャイルドが宿っていたのだが、ルブリスの頃からビットは使用できているので彼女たちがビットを操る必要があるわけではない。もしかしたら性能差があるのかもしれないが、劇中にそのことを読み取れる描写はない。さらに、スレッタを含め彼女らがいつ、どうやって生まれ、どのような経緯で12分の11がエアリアルに宿ったかもわからない。そしてエピローグではエリクトだけが生き残っており、残り11人のことは完全に忘れられている。ドラマでの役割は皆無といえ、ビットの数だけ人格が宿っているというビジュアル先行で深く考えず導入された設定と言われても仕方がない。

また、肝心のエリクトの性格描写も決定的に足りていない。母の計画に賛同していることだけはわかるが主体性は感じられず、自分が生きられる世界を作る計画を彼女自身がどう思っているかよくわからない。むしろこの主体性の無さがかつてのスレッタと重ね合わされ、成長したスレッタとの対比になる可能性もあったが、やはりそう言い切るにはエリクトの描写が少なすぎる。ついでに、あの残虐なファイトスタイルに惹かれていた者として、それが幼さ故のものなのか、彼女自身の気質なのかもできれば知りたかった。

そして、ガンダムの呪いへの結論も出ていない。パイロットの命を危険に晒すガンダムはプロローグからデリングによって否定され、株式会社ガンダムにより原点でもある医療技術への応用が模索され、GUND-ARM技術が呪いを克服する道は示されていた。しかし最終的になんとほとんどすべてのガンダムが超常的な力で文字通り消滅する

兵器としての側面を「消滅」させたということは、医療技術というポジティブな利用法を追求するだけでは結局呪いは克服できず、ご都合主義でネガティブな側面と向き合うことから逃げたように私には見えた。第一、株式会社ガンダムは当初エアリアルの保護のために設立されたはずなのに、最終的にエアリアルが保護を訴えたスレッタ自身の手によって消滅しており本末転倒である。どちらにしても株式会社ガンダムの視点から見たら完全に「失敗」だと思うのだが、どういう訳か感動的な雰囲気で締めくくられている。

「水星の魔女」とは何だったのか

ここまで挙げてきた以外にも問題点は指摘しきれない程あり、本作のストーリーは破綻しているとの感想だ。センセーショナルな設定や展開を矢継ぎ早に盛り込んだはいいが、それらを一つの物語に統合することはまるでできていない。その場の盛り上がりにすべてを賭ける娯楽重視の作品と見做そうにも、差別や戦争、親子関係や男女格差といった現実に通じる問題を半端に深刻な手つきで扱ってしまったことがノイズになる。シーズン1の名残から一貫性を見出そうとしても到底ハッピーエンドとは言えず、にも関わらず「祝福」といわれるのも納得がいかない。

この傾向の煽りを誰よりも受けたのがヒロインのミオリネ(私の推しキャラ)であり、彼女はエキセントリックな戦略を提案はするものの大した考えも問題意識もないため、手痛い失敗をしてトラウマを負った。にもかかわらず最終盤で同じように思い付きでベネリットグループを売却するなどまるで反省の色が見えない。職を失って首を吊る人も少なくないと思うのだが...。場当たり的にアイデアは出すものの、自身が心の底からやりたいことを最後まで見つけることのなかったミオリネの生き様は本作の空虚なストーリーと重なる。彼女はスレッタ以上に空っぽで、最後までそのまま変わらなかった。

ただ、本作は部分を取り出して見れば魅力的なことは確かで、散りばめられた数々の要素から都合よく取捨選択をしてそれぞれにストーリーを作り出すというスタンスであれば案外楽しめるのかもしれない。実際に毎週放送後のtwitterでは必ず関連語がトレンド入りしており、イラスト・文章を問わず二次創作が盛んで、考察という名の妄想が飛び交う現代のオタクコミュニティにはフィットしていたのかもしれない。誰かが言っていた「イベント発生型の乙女ゲーム」の例えが私には一番しっくり来た。

ひとつひとつの設定は魅力的だし、いくらでも面白くする余地はあったと思う。瞬間的な熱量の高さも毎週放送のアニメとしては正しく、私もニチアサで育った身なのでそういうのは大好きだ。何より、キャラクター・メカニックデザインや映像表現、音楽や声優の演技といった素材の力強さは相当なもので、私が単純だからかもしれないが、シーン単位で見れば今でも少しウルッと来るパワーがある。文句もたくさん言ったが、それだけの情熱はあったということであり、「好きの反対は無関心」というあの有名な言説に則れば間違いなく好きである。願わくば、この設定をよりうまく活かせるようなストーリーとともに見たかった。