お前も茶漬けにしてやろうか!-茶柱の人生丸茶漬け-

自分の偏った趣味についての、その時思った感想置き場

『仮面ライダー響鬼』三ノ巻「落ちる声」四ノ巻「駆ける勢地郎」感想

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引用元:https://www.kamen-rider-official.com/riders/6/episodes/358

第3話、第4話では受験勉強に身が入らない明日夢と、明日夢へ正体を明かしてしまったことに悩むヒビキが描かれるが、最終的に二人は再会する。

 

第1話と同じミュージカル的演出で始まる明日夢のドラマは受験勉強の話題が中心。

根拠のない自信、不安、集中力の欠如などこの2話だけでも明日夢の心情は迷走を極めるが、これも受験直前の学生像として妙にリアルに映る。

彼にとってヒビキとの出会いはセンセーショナルであったが、そのために受験勉強への集中力を欠いてしまう。

気持ちのいいことが本人のためになるとは限らないという描写が生々しい(図書館のシーンなど特に)。

そして明日夢はいったんヒビキのことを忘れて勉強に集中する決意を固め、道を示すはずのコンパスをしまうことで自分の道を歩き始めるという逆説的な演出......のはずなのだが(後述)。

 

ヒビキは前回とは違い、立花香須実をサポーターとして魔化魍退治に出向く。

妹の立花日菜佳は「甘味処たちばな」の店番をしつつ、出現予測などを行う。

彼ら3人の会話は本当に情報量が多くて、魔化魍退治の仕事がどのように行われてきたのかが、説明台詞ではなく仕事上の会話としてごく自然に、しかし濃厚に提示されていてとても楽しい。

またヒビキは整理が下手だったり、(恐らく)他言無用の規則を以前にも破っていたりとまたもや実はかっこよくない所が描かれており、見た目はかっこいいはずのサングラスを表情を隠すためにばつが悪そうに掛けるのが特に良い。

 

そして4話中盤以降、香須実と日菜佳の父でありヒビキの上司の立花勢地郎が登場し、明日夢と持田との追いかけっこの末彼らを「甘味処たちばな」に招きヒビキと引き合わせるが、私はこの結末にかなり違和感を覚える。

これは自分なりの責任の取り方として明日夢と向き合うというヒビキの決意に対応した結末だと言える。

しかし前述の通り明日夢は一度ヒビキのことを忘れ受験に集中する決意をしており、少なくとも本話だけを見ればヒビキの決意が明日夢より優先され、明日夢の決意は蔑ろにされているように見える。

またそもそも「明日夢と分かり合えるかどうか」というヒビキの今後の課題の曖昧さ、明日夢の決意のうやむやさにも拘らず、どちらのシーンでも感動っぽいBGMで纏めているのも強引だと思う。

具体的な解決もなくいい話風にするだけでも強引なのに、同話中に2回もその力業を使っているのもかなり問題がある。

ドラマ以外にも、鬼の仕事は他言無用のように描かれていたと思いきや、勢地郎が事情を知らない持田まで招いてしまうのも腑に落ちない。

 

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引用元:https://www.kamen-rider-official.com/riders/6/episodes/359

ヤマビコの退治のため、ヒビキと香須実は山中に拠点を構えて調査をする。

ここで使われる用具はほとんどが実際のキャンプ用具だが、調査の要はディスクアニマルによる物量作戦であり、現実と非現実のブレンド具合がとても良い。

ディスクアニマルを飛ばす位置は地図上にマークしてあるが、そのディスクアニマルをどこに飛ばすか、そしてヒビキがどうやって一体一体を区別しているかがわからないのは気になる所ではあるが、専門家なりの見分け方・聞き分け方があるのかなと好意的に見れるくらいにはこの仕事描写は好きだ。

 

童子と姫は毎回コスチュームが違うものの、顔と声は同じなのが不気味で良い。

まだ2種類しか登場していないのに既に演じ分けが明確で、ただでさえややこしい役だろうに本当に俳優たちの演技力に感服する。

また、「声に反応する」という特徴が色々な形で描かれるのも良い。(声に返事が返ってきたらアウト、「声を奪う」メタファーな殺害方法、ヤマビコを呼び止める響鬼など。)

ヤマビコは頭部が毛深い巨大な猿のような魔化魍

ツチグモよりもかなり大きくて、アカネタカが群がる山の影から現れるシーンはいかにも怪獣でとても良い。

 

戦闘シーンは3話は夜、4話は朝で見栄えが全く違って贅沢。

見づらいところのあった1、2話に比べて、夜・朝共に光の反射が良い感じで非常に美しく、特に4話の決着後は朝の光がスーツと水面の両方に反射してとても綺麗で清々しい。

童子・姫戦では鬼火に加え「鬼闘術・鬼爪」を披露、いきなり腹に深々と突き刺す容赦がなさが良い。

あと木製の音撃棒を奪った姫に躊躇いなく火を噴くあたり、やはり魔化魍だけを燃やす炎なのだろうか。

 

ヤマビコ戦は思いっきり合成だけど、サイズ差のある戦闘の最低限の面白さは描けてはいるかな。

音撃打にはBGMが付き、前回よりは確かに盛り上がるが結局和太鼓の迫力で魅せている訳ではないのでモヤモヤする。

 

以上、鬼の仕事が説明的でなく自然に台詞と映像の両面で描かれるのがとても楽しく、現実感強めな中少しの非現実感を混ぜ込むバランスもとても好み。

また、明日夢とヒビキ双方の生活や人間関係が物語開始以前から続いているのもとても自然でいい。

ただこれらの人物描写や設定のディティール、及びそれらの見せ方は秀逸ながら、ドラマは早くも問題あり。

この2話だけ見ても明日夢の先行きは(キャラクター本人ではなく作り手の都合で)迷走していて、今後が不安になる。

『牙狼<GARO> ハガネを継ぐ者』第1話「創(はじまり)」感想

©2024「ハガネを継ぐ者」雨宮慶太東北新社

引用元:https://garo-project.jp/garo_hagane/episodes/

ブログ名にもある通り私は一応特撮番組のファンなのだが、昔は今と比べても食わず嫌いが激しくて、スーツやミニチュア・セットを用いたものこそが「特撮」でCGや合成は邪道だと考えていた時期があった。

今からするとばかげた話だが、そういった経緯で(世代的には見ていてもおかしくなかったのだが)CGを多用するイメージから牙狼シリーズは避けていた。

唯一観たのが2017年に放送されたスピンオフ作品の『絶狼<ZERO>-DRAGON BLOOD-』で、この頃はCGへの偏見も薄くなっていてなかなか楽しめたのだが、結局その後距離を縮めることはなく、今回も「ウルトラマンが終わるし観てみるか」くらいの気持ちだった。

しかしこれが予想外に面白い

特に美術とアクションは『DRAGON BLOOD』や断片的に見かける歴代の牙狼の映像と比較してもちょっとただ事じゃないこだわりを感じる。

感想も当初は全話観終わってから纏めようと思っていたのだが、個別のアクションシーンに言及したくなったので各話感想の形を取ることにした。

 

主人公の道外流牙と魔導輪ザルバ以外は新規キャラクターで、私のような初心者も安心。

異変が起こりつつあるクレアシティに召集された流牙だが、失踪した父の代わりに独力で街を守ろうとする白羽創磨と衝突する。

 

外観と中央にあるタワーはいかにも架空の都市らしいCGモデルが用意されているものの、中に入ってみればクレアシティは住人を含めどう見ても現代日本なのだが、それを補って余りある素晴らしい美術の数々によって独自のファンタジーとしての空気感が形作られている。

魔戒騎士たちのゴテゴテに装飾されたロングコートや、和服のように色鮮やかな布を重ねつつもチアリーダーのようにスポーティなコヨリの法衣など、とにかくひとつひとつ手が込んでいてそれだけで見応えがある

魔戒騎士の鎧も当然、超かっこいい。

牙狼の鎧は余りに金ぴかで、スーツのはずなのにCGや特殊メイクよりも異様な迫力を放っていて、主人公であり最強の魔戒騎士だということが一目で直感的にわかる。

対して、所謂量産型にあたるハガネ牙狼よりも光沢は鈍く武骨な魅力がある。

モロに狼な牙狼と異なる、獣と甲冑の中間のような造形の頭部や背中の鬼面のような意匠もかっこいい。

 

そして敵役であるホラーの特殊メイク。俳優の顔に黒塗りのメイクをした姿とスーツアクターに特殊メイクを施したホラー態の2形態がある。

特にホラー態はスーツアクターの顔に合わせて表情が動き、また着ぐるみよりも軽いのか(それともただスーツアクターがめちゃくちゃ頑張ってるのか)動きまくって魔戒騎士と格闘戦を繰り広げるので、ニチアサの着ぐるみ怪人とは一線を画す迫力がある。

第1話から2体ものホラーが登場する大サービスぶりで、それぞれに良さがある。

冒頭に登場するシャウラは女性型で、人間態は女性らしい柔軟性とエクソシスト的な気持ち悪い動きで攻撃を繰り出し、ホラー態になると悪魔のような黒い装甲に覆われ、頭部の角を取り外した2本の鎌を武器として戦う。

後半登場するレグレージ仮面ライダー威吹鬼でお馴染みの渋江譲二氏が演じる村重勉が変化したホラーで、ハンマーで殺人を行う。ホラー態は毛皮に包まれた白い獣人で、ハンマーが大型化した棍棒を振り回す。

また、村重をホラー化させた誘惑者の全身赤で統一され前髪で顔を隠したビジュアルも、恐ろしくも妖艶な魅力がある。

 

アクションシーンについては、まず怪人が2人登場してるだけあって分量が多くて満足度が高い。

2回の戦闘に共通する点として、ホラーの形態変化や仲間の参戦など、戦闘が段階的に変化し音楽もそれに合わせて盛り上がるのが特徴。

映像も段階ごとに味付けが変わり(例えば、シャウラス戦はホラー態になってからは主観視点が多用されるようになる、など)、この段階の変化をきっちりメリハリをつけて描き分けているので非常にノりやすい。

シャウラス戦で注目したいのはカットの切り替えでエクソシスト的な動きを表現する所、繋ぎ方が滑らかで違和感がない。

特にのけぞったまま震える動作や後ろ向きに這う動きは人間に出来るとは思えないので恐らくワイヤーかCG合成を用いていると思うのだが、映像の質感が全く浮いていないのがすごい。

流牙の動きもメリハリが利いているのに体幹がぶれず無駄がないので、徒手空拳で怪物を圧倒することに説得力がある。

2回やる前蹴りが特に様になってて半端なくかっこいいのだが、これはどれくらい栗山航さん本人なのだろうか…。

牙狼の鎧も文字通りの一撃必殺・一刀両断で、総じて主人公の圧倒的な強さがわかり、導入として申し分ないと感じた。

 

レグレージ戦は人物の全身を捉えつつ周りを旋回するようなカメラワークが多用されており、レグレージが棍棒を振り回す動作が立体的に見られるのが嬉しい。

また流牙が一般人を庇いながら戦う変則的な動きや、コヨリが攻撃を受け流す動作も位置関係が把握しやすくなっている。

そしてクライマックスの創真(ハガネ)登場後の駐車場での戦闘はのライトをハガネの鎧と水たまりが反射して美しく、それをさらに周回して映すのが更なる美しさを生んでいる。

ひとつの戦闘で主となるカメラワークが決まっていて、それに合う見せ場が複数設定されており、作り手がアクションシーンに確かなビジョンとセンスを持っていることが伝わってくる。

レグレージに飛び掛かり切り伏せるフィニッシュが、シャウラスに流牙が決めたカウンターと対比になっているのもいい。

あともうひとつ、創磨(ハガネ)の登場は(恐らく)空中はCGで着地時はスーツなのだが、例によって合成に全く違和感がなく秀逸、水しぶきもキマっていてかっこいい。

 

そしてこちらは『DRAGON BLOOD』には感じなかった本作ならではの魅力なのだが、ホラー演出がちゃんと怖いというのが挙げられる。

冒頭からしっかり時間をかけてダンディ坂野をいたぶる電光掲示板のシークエンスは「いつの間にか後ろに誰かいる」の天丼(後半のゴミ捨て場のシーンでもさらに重ねられる)、死角から現れる手などの定番の幽霊演出。

村重がホラー化するシーンは電灯が点滅する間、映像・音楽両面のショック演出で登場する誘惑者も良いのだが、中でも図面に飛び散る血での殺人表現は渋江さんの気力を失った表情も相まってめちゃくちゃ怖い。

極端なグロはなく和風ホラーらしいにじり寄るような恐怖がしっかり表現されていて、(俳優・スーツアクターの演技含め)これも実写重視の作風とマッチした結果だと考えられる。

 

以上、アクションや恐怖演出、美術により「映像で魅せる」が体現され、音楽も有効に用いられており、まさにアクションドラマのあるべき姿だとさえ思えてくる。

愚痴っぽくなってしまうが、私が生まれて以降観てきた特撮作品はどれもどこか予算不足を感じる部分があり、それを「察し」ながら観ることに慣れてしまった。

そんな中で「見くびるなよ!」とばかりにごまかしのない本気をぶつけてくる作品もあって、そういうものを見ると涙が出てくる。

本作のアクションと美術へのこだわりと充実ぶりは、第1話だけでも間違いなくその本気を感じるものだった。

 

youtu.be

『仮面ライダー響鬼』一之巻「響く鬼」二之巻「咆える蜘蛛」感想

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引用元:https://www.kamen-rider-official.com/riders/6/episodes/356

2月10日より東映特撮Youtube Officialで『仮面ライダー響鬼』の配信が始まった。

私が初めて観た仮面ライダーは『仮面ライダークウガ』で、それ以降毎年観て『W』以降は観たり観なかったり、後から観たりという感じだった。

その中でも響鬼は一番とは言わないまでも好きな方で、かなり楽しんで観ていた。

当時はおろか今もって相当な異色作だが、基本的に私は生物的なデザインと徒手空拳中心の仮面ライダーが好きなので、意外とすんなり受け入れていたと思う。

とは言いつつ、やはり後半のストーリーの迷走などが苦い思い出だったのか通しで観直したことは一度もなかったので、この機会に改めて向き合ってみようと思う。感想も、今回こそは走りきりたいな…。

 

オープニングテーマ「輝(かがやき)」はTVシリーズでは唯一のインストゥルメンタルで、作曲・編曲は本作の劇伴も手掛ける佐橋俊彦氏。

映像もかなり独特で、全体的にシンプルかつ動きが少ない静的な表現が用いられているが、音楽が盛り上がるラストスパートにかけてディスクアニマルアカネタカ響鬼のアクションが入る緩急が気持ちいい。

筆文字風のフォントや濃いの単色の背景、登場する俳優たちのどこか虚ろな表情に加え顔に文字が浮かび上がる演出など、どこか超現実的で少し不気味な雰囲気を醸し出しており、和風怪奇の本作の設定とよくマッチしている。

しかし改めて見ると、これだけ動きの少ない映像でもきちんと映えるキャスト陣はかなりの美男美女揃いだ。

一般的なアニメや特撮番組のオープニングは約1分30秒だがこちらは約50秒、第2話以降の明日夢によるあらすじを合わせても約1分10秒と短めで、個人的には本編開始が早くて少し得した気分になる。

 

冒頭、主人公の安達明日夢くんの登校シーンで開幕するが、まさかのミュージカル調演出が怪奇とは別方向で非現実的、はっきり言ってシュール。

生活の中にある音楽を表現しているようだが、実音に近い物(犬の鳴き声、お坊さんの鐘)と遠い物(倒れる自転車、カンナ、釘を打つ金槌)の差が個人的には気になる。

起こっていること自体はシュールだけど、思春期の言動の輝かしいようで実は痛々しい様をかなり的確に捉え、象徴的に描いているように見える。

その他にも明日夢は自意識過剰で心ここにあらずだったり、船から落ちそうな子供から目を逸らしてしまう無責任な面が描かれており、思春期故の未熟さが強調されている。

同時に、船からイルカを見つけてはしゃいだり、親戚のお姉さんと法事を抜け出したり、気になったヒビキのことを夢中で追いかけたり年相応の無邪気な一面もある。

実質的な主人公でありながら第一話からかなり極端に思春期の正負両方の面が描かれており、本作の人間ドラマに期待が持てるところ。

 

そしてその明日夢が出会うヒビキは、人当たりが良く気取った感じがない好人物。

「かえるのがっしょう」の替え歌や「鍛えてますから」に代表されるあまりに漠然とした物言いなど結構な変人で、機械音痴という弱点もある。

しかしこういう隙が却って余裕を感じさせ、明日夢とは対照的に経験豊かな落ち着きある大人としての風格がある。

明日夢との距離感は明らかにおかしくて、初対面から積極的にアピール、窮地を救い最終的には家にまで泊まるなどブコメもかくやという接近ぶりを見せたかと思えば、急に突き放すように去っていく。

好意的に解釈するなら、この距離感も明日夢の自意識のフィルターを通して極端に描かれているということだろうか。

(それにしたって、子供が落ちるのを見て見ぬ振りをしたことや逃げずについてきたことは大人なら𠮟るべきだと思うが。)

(これは結末を知っているから言及するか迷ったのだが)ヒビキが明日夢の父に似ており明日夢自身も似てきていると言及され、最序盤から「明日夢がヒビキに弟子入りし鬼になる」展開が露骨に示されていたのには驚いた。

明日夢とヒビキ以外の登場人物も言動がエキセントリックで、人物造形はかなりデフォルメされていると感じた。

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引用元:https://www.kamen-rider-official.com/riders/6/episodes/357

そしてなにより特徴的なのは、この2話だけを見ても全体に漂う「和」の空気感。

通学中に映る寺や明日夢の親戚の家、「甘味処たちばな」などの和風建築の建物、さらに木々が生い茂る屋久島の山中の風景。

これらに共通するのは「木」であり、日本的なものと言われれば木造建築や箸など木製の物品を思い浮かべるのは私だけではないだろう。

子どもの頃は何故屋久島なのかと疑問に思っていたけど、日本に象徴的な素材の木を武器に使う響鬼が、樹齢が長く世界自然遺産にも指定された屋久杉の「力を借りる」というのは、和風のヒーロー作品の導入としてはかなりしっくりくるものだと今は思う。

またこれらの風景や日常生活に溢れる「木」は飽くまで日本に現存するものであり、記号的なファンタジーとしてではなく(当時の)現代社会にある「和」を描いているのが印象的。

これはヒビキの服装や装備にも顕著で、彼は例えば着物姿でござる口調などの「いかにも」な感じではなく、一見妖怪ハンターにはとても見えない。電話や車などの現代の機械も(苦手ではあるが)普通に使う。

でもそのそれっぽくなさが逆に「実際にいるかもしれない」というリアルな説得力を醸し出しており、本人の落ち着きも合わせた専門家らしさが魅力的だ。

 

その他には授業シーンなど、細かい映像を繋ぎ合わせ、漢字のカットインを挟みつつ切り替えるスピード感のある演出をしたかと思えば、山の異様な雰囲気に圧倒されてキャラが完全に静止するなど、映像演出に関してもかなりデフォルメがされている。

また劇伴は木琴や鉄琴が印象的に用いられていて、この打楽器のリズムの緩急が演出のスピード感と相関していて心地よい。

 

そしてヒビキが変身する本作のヒーロー、響鬼について。

第一話では変身シーンを直接映さず遠景から捉え徐々に日光に照らされるミステリアスな演出で、第二話はアップで堂々と紫の火の粉を散らしての変身という対比がもう非常にかっこいい。

暗い体色ながら光沢が眩しい筋肉質な肉体に褌のようなベルト、目や口などのパーツがなく代わりに隈取のような意匠が立体的に浮かぶ顔、そして額の鬼面

この作品自体と同じく今を以て異色としか言いようがないが、地味過ぎず派手過ぎず洗練された美しいデザインだと思う。

特に顔に関しては正面から見た時と横から見た時で違った良さがあって、これこそ「動くとかっこいい」ということだと思う。

アクションシーンに関しては天狗のように軽やかに木々を飛び移るのがカッコいい。

そして第一話のラスト、衝撃の火炎放射

この「鬼幻術・鬼火」は初めて見た時も驚いたけど、今見てもまあ全然色褪せない。

仮面ライダーだしここまで肉体を強調してきたから格闘技で〆ると思いきや遠距離攻撃、しかもそれまで無かった口を開いての不意打ちという反則感。

童子が火だるまになる絵面もなかなかにえげつない。

(作品的にもエピソード的にも木を強調しておいて火吹きって、山火事になったらどうすんだというツッコミどころ、もとい面白さもあるが。)

そして土蜘蛛を倒した「音撃打・火炎連打」怪物に跨って太鼓を叩くというこれまた衝撃的な絵面。

しかし、個人的にはいまいちパッとしない印象で、まず音がただ叩いているだけで演奏している感じがしなくていまいち乗れず、ブレ演出も躍動感を表現しているのはわかるがそんなに面白くはない。

総じて、イメージされる和太鼓の演奏と比べて視覚的・聴覚的両面で迫力負けしてしまっていると感じた。

ただ、歴代のライダーキックにしても上記の鬼火にしても、仮面ライダーの必殺技というのは基本一撃必殺なので攻撃している時間が短く、演出を盛るにしても技を繰り出す前後が長くなるものなので「技をかけている時間が長い」パターンの演出はノウハウが無かったはずなので仕方がないことかもしれない。

 

怪人に当たる童子は、ヒビキとは対照的に時代がかった服装、顔の模様に男女入れ替わった声などとにかくあらゆる角度から違和感を演出していて、俳優たちの顔立ちと妖艶な演技も相まってしっかり妖怪らしい存在感に仕上がっている。

怪人態の造形は髪が抜け落ちたグロテスクな外見がいかにも怪人といった感じで、着物がマフラーに変化する仮面ライダー要素があるのも良い。

そして童子と姫が育てていた魔化魍土蜘蛛

怪人が育てる大型の怪物という、もう何個目かわからない本作独特の設定だが、第一話に蜘蛛怪人が登場する伝統に倣ってメジャーな蜘蛛妖怪を最初に持ってきたのには感心した。

実は「他の魔化魍はキメラ的なのに、これはただのデカい蜘蛛じゃん」と子供の頃は思っていたのだが、模様やタイトルにもある咆え声に虎のイメージも入ってると最近知った。(確かに蜘蛛は普通は咆えないが、怪獣なのでそういうものだと勝手に納得していた。)

 

また、怪人が登場するシーンは全体に靄がかかっており幻想的で、その中で日光が響鬼の身体に反射して輝く、という演出がされている。

忍び寄る魔化魍の脅威それに一人立ち向かう鬼という図式を自然現象を使って視覚的に演出していてなかなか美しいのだが、結構な頻度で画面が見づらくなるのが玉に瑕。

靄と画質の悪さが相まって何が起こっているかわからない場面が多く、日光がカメラに直接反射した場面は本当に眩しい。(最後の変身解除シーンなどは程よい眩しさなのだが......。)

 

エンディングテーマは布施明の「少年よ」。

音楽を扱った作品なので楽曲が重要なのは言うまでもなくで、そこでこれだけ歌唱力のある大御所を呼べたのはもう本当によくやってくれたと思う。

所謂「アニソン歌手」ではないという異質さも含め、本作の存在感とマッチしていると思う。

歌詞は大まかに言えば自分らしさに悩む少年に贈るアドバイスと激励で、第二話の海岸での明日夢とヒビキのやり取りとリンクする。

映像はゆっくりと歩くヒビキを追う視点で進み、最後に振り返ったヒビキと明日夢が対面するという構成。

夕暮れ時のセピア色の景色の中、文字通り背中で語る細川茂樹の演技が光り、すれ違うメインキャラたちとのやり取りにも和まされて何とも味わい深い。

 

さて、初回なので設定や全体的な演出に言及していたら少々長くなってしまった。

今見ても仮面ライダーとしては異質な描写に満ちており、和風怪奇+中年ライダーという渋めの題材ながらデフォルメの利いたキャラクターと緩急のついた演出で基本的に楽しく観られる。

テーマ曲と劇伴も素晴らしい反面、ミュージカルや音撃の音楽的演出の拙さやアクションパートの画面の見づらさなど、コンセプトに演出が追い付いていない部分もある。

それでも圧倒的個性を見せつけており、初回としては十分すぎる見応えがあったと思う。あと半年間追いかけていくのが(もちろん後半も含めて)楽しみ。

『第9地区』感想:日本の特撮ヒーローファンが観るべき映画!

ウルトラマンブレーザー』最終回を観てから、UFOやエイリアンとの対話を描いた映画を探していて出会った『第9地区』。

2009年公開の映画で私はほとんど知らなかったけど、もうポスターの時点で求めてるタイプの映画なのは明白だったので観たら、最高だった。

エイリアンの文脈も素晴らしいのだが、表題の通り日本の特撮ヒーローファンとして刺さる要素が複数あってかなり楽しめた。

いつも通りネタバレ全開で感想を書くが、もしまだ観ていない方が読んでいれば先に本編を観て欲しい。出来るだけ先入観を入れずに観た方が面白い映画だと思うので。

報道の暴力

本作は所謂フェイクドキュメンタリーの手法を用いている。後半はドラマ的要素が強まるが、その中でも監視カメラや報道ヘリからのニュース映像が挿入され映像的な一貫性を作っている。

UFOやエイリアンが登場する世界とそれらが現れ定着した経緯を視覚的に端的に説明する冒頭シーンは、観客を一気にこの世界に引き込むパワーがある。巧いのはエイリアンやUFOの設定を確定的なものではなく、飽くまでインタビューを受けた人々の解釈としてしか描いていないこと。これによりエイリアン周りの神秘性を保ちつつ、この世界が彼らをどう受け入れたか等のこの世界の価値観がわかる。(作品を観進めていくとわかるが、彼らの解釈の中には明確に外れているものもあれば当たっているものもある。)

 

さらに主人公ディカスの関係者へのインタビュー映像を通して、彼に何かが起こった事を序盤から提示することで物語の推進力を作っている。最初は曖昧だった表現が徐々に具体的になっていくのと、ディカスにその何かが起こるまでのドラマの進行がリンクしており、真相がわかる瞬間の衝撃も高めている。

 

そして最も印象的なのが、ドラマ上の意味とは別にこれらの映像自体が報道の危険性を浮き彫りにしていること。

ニュースに映るエイリアンは粗暴な行動が目立つが、これらは偏向報道である可能性がある。上記のインタビュー映像では、「有識者」の発言のエビデンスは示されず、ディカスの関係者たちはいわば手前勝手な「お気持ち表明」をしているだけで、どちらも客観的事実とは程遠い。

そして実際に主人公ディカスは中盤、根も葉もない醜聞ひとつを暴力的ともいえる拡散力で広められたことであっけなく社会的信用を失ってしまう。これが単にエイリアンとの共謀などではなく性的関係という生理的嫌悪感を煽る内容で、受け手の理性的判断力を失わせているのが狡猾なところ。

また追われる身となったディカスの境遇からわかるように、ゴミ漁りや窃盗などは過酷な環境で生き抜くための苦肉の策でもある。しかし特定の人々を虐げたい側からすれば、彼らから権利を奪えば奪うほど彼らの社会的信用を下げられるという最悪な一石二鳥の仕組みが出来上がっている。

これら一連の映像を視聴者として見せられる観客は、この映画内だけでなく普段自分が見ている映像も意図的に編集されたものではないかという疑念を否応なく抱くだろう。それら全てを疑うことがいかに難しいかは考えるまでもなく、「世論が誘導されている」という普段は眉唾に聞こえる言説が嫌な現実味を帯びてくる。それを野暮な説明ではなく、資料的な映像を通して肌で感じさせてくるのがとても巧い。

普通の人

本作の主人公のディカス・ファン・デ・メルヴェは冴えない小役人的な男で、登場シーンからして主人公らしいカリスマなど皆無なのだが、これが本作の物語には最適だった。

彼が作中で最初に行う仕事がエイリアンへの立ち退き交渉(実態は強制移住)なのだが、この一連の交渉シーンの描写が秀逸。

エイリアンへの侮蔑をむき出しにする傭兵たちと違って彼は真摯な態度で対話に臨んでいる……と言いたいところだが、実際は差別行動のオンパレードである。

「エビ(prawn)」という蔑称に疑問すら持たず、行動ひとつひとつから相手を知能の低いものと見下していることが見て取れる。これらがまあ結構な長さでねちっこく描写されていて目を覆いたくなる。具体的に挙げていくとキリがないが、最も印象的なのはやはり「中絶」だろう。そもそも地球人の法や常識に詳しくないのを良いことに都合を押し付け、現在より劣悪な居住地を快適だと偽って移住させようとするこの交渉そのものが暴力的である。

彼が温厚な人物なのは間違いなく、本人なりに真摯な対話を心掛けているのだと思う。だがそんな彼でさえ、ということである。ディカスのような普通の、つまり差別主義者や過激派を自認しない人々が、自分と相手が対等ではないと当たり前に思っている。この差別描写が恐ろしくリアルで、現実でも上記のような暴力が平然と行われていたことが想像に難くない。(つい30年前までアパルトヘイトが行われていた南アフリカが舞台というのも、無関係と考える方が無理がある。)

そして極めて自然に在る差別が生々しく徹底的にリアルに描かれ、主人公がそれに疑問を抱かない凡人であることがこの映画の二つの劇的な「嘘」を映えさせている。

 

ひとつはディカスの「変身」。

ディカスはある液体を浴びたことで肉体が徐々にエイリアンに変化していくのだが、これにより彼は一転差別される側に立たされ、その恐ろしさを嫌というほど味わうことになる。

恐らくディカスは先述したような差別行動を無意識に「知能の低い相手に合わせている」と正当化していただろうが、実際にはそれは間違いだった。相手が言葉が通じようが何を考えていようが差別をする側の都合で簡単に握りつぶされるのだと、比喩ではなく身をもって彼は体験する。

もうひとつは、本作終盤のディカスを巡る因果。

ディカスは身体が変化し始めてから次第に冷静さを失い、自己中心的な行動が目立つようになってくる。そして液体の使い道を巡ってクリストファーと争い彼を裏切ってしまうのだが、司令船は撃墜され二人とも捕らわれ全てが上手くいかない。その後、パワードスーツの力で何とか脱出したディカスは、今度はクリストファーを助け自身が囮になり、最終的にクリストファーは母船へ戻ることに成功する。

私はここは「団結すれば立ち分裂すれば倒れる」あるいは自己犠牲の美しさなど、割とシンプルに熱い展開だと思ったのだが、これは本作の(特に前半の)ドキュメンタリックな作風には一見似つかわしくないように思える。しかしそうではなくて、前述したようにむしろリアリティで地盤を固めているからこそ劇的な展開が活きるのだ。

ディカスは徹底的に凡人として描かれており、観客から(英雄への憧れではなく)卑近な人物として共感を得る。だからこそ彼の身に降りかかる悲劇と、最終的に彼が見せる勇気の尊さが一際心に訴えかけるものになるのだと私は思う。

特撮ファンとして

ここまで本作のフェイクドキュメンタリーとして優れた部分に言及してきたが、監督によると本作は政治的な映画ではなく、娯楽作品として作られたものらしい。

実際、作品後半で繰り広げられる白兵戦や、パワードスーツでの大立ち回りなどアクションシーンはかなり見応えがある。ゴア描写も(ギャングや傭兵のクズっぷりも込みで)爽快感があるいい塩梅だと思う。またエイリアンの武器や、クリストファーの家の研究設備や司令船の内装など、メカ・ガジェットの造形もかっこよくワクワクさせられる。

しかしそれ以上に、日本の特撮ファンとして見逃せない描写がこの作品にはあって、正直言って私が本作を好きになった一番の決め手はそれらだった。一応断っておくと、監督が日本の特撮番組を参考にしたというソースはないし、そういう主張をしている訳でも勿論ない。オタクが勝手に結びつけて喜んでいるだけなので誤解なきよう。

 

まずは勿論、「エビ」と呼ばれる本作のエイリアン。私は『ウルトラマンブレーザー』のV99及びその考察で名前が挙がるバルタン星人的なものを求めて本作を観たのだが、そういう意味で本作はドンピシャだった。昆虫・甲殻類っぽい造形といい具合に作り物っぽい質感が、リアル寄りで西洋風のバルタン星人に私の眼には映って、大変満足だった。

また本作ではエイリアンの視点からの描写は最低限に抑えられており、彼らの生態や文化などは飽くまでディカスや「有識者」の解釈として描かれる。この他者を理解したつもりにならない真摯な描き方も、V99と同じで求めていたそれだった。

 

そしてこちらは予想外だったのだが、本作には仮面ライダーに通じる要素もある。身体に異変が起きたディカスはMNUの研究施設に捕らわれるが、隙を見て脱出する。(エイリアンが昆虫っぽいのもあるが)このシーン、完全に改造手術後にショッカーから脱走する仮面ライダーじゃん!

というかむしろ、手術の様子を詳細に映した仮面ライダーの前例は私は知らないので、何なら仮面ライダーとしても新しいのではないか。実験の凄惨さやそれを実行する奴らの酷薄さを描くことで脱走するディカスを観客が応援したくなるつくりは、改造⇒脱走という仮面ライダーの様式に感情を乗せていて画期的だとさえ思った。私が本作で最も興奮したシーンはここだった。(ディカスが受けた実験は改造手術ではなく変身の原因は別にある、ディカスはその後臓器売買のために殺害されるところだった、という違いがあるのでこじつけ感は否めないが。)

また主人公が人間から被差別民であるエイリアンに変化するという展開は『仮面ライダーBLACK SUN』と重なる。『BLACK SUN』の差別描写がはっきり言ってかなり杜撰だったことを考えると、本作は『BLACK SUN』に当初期待されていたものを見せてくれていると思える。

 

まあ、これらの要素は普通にエンタメとして楽しめるものなので、無理に特撮に結び付けて観る必要はないし、失礼に感じる人もいるかもしれない。しかし自分はそれがあったから一層本作を好きになったのは事実なので、敢えてこういう形で感想を述べさせてもらう。

おわりに

本当に面白かった。フェイクドキュメンタリーをSF設定とそこにはびこる差別と絡め、メッセージ性もドラマ的盛り上がりにも活かしているのが本当に秀逸で、アクションを始めとした映像美や俳優の演技も素晴らしい傑作だと思う。ハリウッドとしては低予算で、監督はこれが長編初監督だというのが信じられない。

特撮ファンとして惹かれるポイントもあり、何なら本家(?)よりいいじゃん!とさえ思えてしまう部分も多々あった。日本の特撮ももっと頑張って欲しい、というのは無責任な発言だけど、本当に頑張って欲しい。応援してるから。

『ウルトラマンブレーザー』全体感想:命の行方を照らすコミュニケーション(ネタバレあり)

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1月20日、『ウルトラマンブレーザー』が最終回を迎えた。近年のウルトラマンとは異質な要素が多い本作は放送当初から注目を浴び、その勢いのまま走りきった印象。私も大いに楽しんだ。その分ファンの期待も大きかったようで、自分の観測範囲ではほどほどに賛否が分かれていてそれもまた良かった。自分とは違う意見を知るのも鑑賞体験の一部だと私は考えているので。

横軸重視の面白さ

本作は近年では通例となっていた旧作ウルトラマンの力を借りる設定や客演がなく、さらに登場する怪獣も大半が本作初登場である。これは2013年の『ウルトラマンギンガ』以降のウルトラシリーズでは初めてであり、有名怪獣のゲスト出演が定着したのが『マックス』(2005)だと考えれば『ネクサス』(2004)以来、実に19年ぶりの完全に独立した世界設定である。

反面、作風については作品を通しての悪役が登場せず基本的に1話完結であり、どちらかと言えば昭和・平成のウルトラ作品に近い印象を受ける。縦軸要素である謎の存在「V99」もすべての黒幕や諸悪の根源などのストーリーと密接に関わるものというより、話を跨いで登場する大ネタ程度の扱いだ。怪獣たちの個性を活かしたバラエティ豊かなエピソードの数々が本作の魅力である。

私もはっきり言って全話好きなのだが、特に推したいのは第6話「侵略のオーロラ」と第14話「月下の記憶」、第21話「天空の激戦」。

第6話に登場するカナン星人は元は『ウルトラセブン』(1967)に登場した宇宙人でカプセル怪獣のウインダムを洗脳したのだが、本作でもロボット怪獣のアースガロンの洗脳と整備士であるバンドウ・ヤスノブ隊員の懐柔を企む。

このカナン星人は『シン・ウルトラマン』のメフィラス星人をカジュアルにしたような感じで、服や洗濯、ピクニックという生活感やダジャレまで使いこなし、地球人との心の距離を縮めようとしてくる。愛嬌があり可愛らしささえ感じさせるが、それが却って不気味。「機械には心があり、自分はそれを解放している」と嘯くが実際にはカナン星人の方が機械を都合よく使役しており、また「カナン星は戦争で壊滅状態である」として同情を誘うがそもそもそれは自業自得であるなど、発言自体に全く信憑性がない。

このことからそもそも機械に心があるのかさえ怪しいのだが、最終的にヤスノブとゲントは洗濯機のクルルに心があることを信じ、クルルがそれに応えるかのように揺れた。機械の心を信じることを肯定し感謝を告げるという終わりが、本作のテーマを端的に表していてとても美しいと感じた。

第14話、第21話はどちらも月光怪獣・デルタンダルが登場する話。デルタンダルは一言で言えば「着地しない飛行怪獣」という珍しい怪獣で、この2話ともに戦闘は全て空中戦。

第14話はなんと2分30秒もの戦闘を1カット風に処理するという挑戦的な作り。闇夜の中で閃光と爆炎に照らされながら、空中戦ならではのダイナミックな距離感で繰り広げられる攻防がとてもカッコいい。第21話では前回の6倍もの巨体で登場、UFOのような異様な存在感を放ちながら爆撃を行うが、最終的にはMod.4に換装したアースガロンとダイナミックな空中戦を演じる。空中戦が大好物の筆者にとっては存在自体が有難いデルタンダルが、監督・脚本によってここまで違う活躍を見せてくれるとはご褒美すぎる。本作のアクションパートはこの2話だけでもお釣りがくる程に私は満足した。

 

他にも、越知靖監督が担当した回(第9~10話、第18~19話)はどれも好きだ。本作はよく言えば硬派、悪く言えば地味な絵づくりが多い印象があるが、越監督は派手なCGエフェクトと大胆な構図を多用するため特撮シーン、特に必殺技に見応えがある。また、顔面アップや立ち姿をしっかり映したカットが多く、ブレーザーの独特なデザインがしっかり見られるのが嬉しい。

更にドラマパートでは映像で見せたい部分を見せた後、台詞であっさり説明してしまうというこれまた大胆な癖がある。しかし第9話、第10話はそれぞれ締めの部分での台詞が説明的ではあるが、逆にその明け透けさがこちらに直接訴えかけるようで、ある種あざといような独特な味わいがある。本作は全体的に説明が少なく視聴者の解釈に委ねる部分が多いが、この作風はその方針によくマッチしていたように思う。

ブレーザーの特徴である「声」に関する描写も多く(第10話のハウリングブレイク、第19話のファードランとの共鳴)、見方によってはメインの田口監督以上に本作らしさをうまく表現している。私は『ウルトラマンZ』(2020)の第16話を観た時から越監督のファンを自称していたが、本作は彼の魅力がたっぷり詰まった一つの到達点のように感じた。

ここから更に、一番好きな怪獣はゲードスで……ヴァラロンも良くて……という話まで始めると終わりが見えないのでここで切り上げるが、とにかくどの回・どの怪獣も魅力的で、作品全体の満足度の高さは今まで見たウルトラ作品の中でも随一だと感じた。

リアリティライン高めの作風

本作は脚本及びシリーズ構成(田口監督と共同)を担当する小柳啓伍氏によるミリタリー考証が徹底されているようで、SKaRD MOP内部やアースガロンのコクピットを始めとした防衛隊の装備、SKaRDの面々の行動や専門用語などに見て取れる。アースガロンへの搭乗員を固定しない、土日込みのシフトを組む、人形とミニチュアを用いた戦闘シミュレーションの妙に和やかな雰囲気もあり、リアルな特殊部隊っぽさと共感できるお仕事描写が絶妙なバランスで同居しているのが見ていて楽しい。

これほどミリタリー色の強いウルトラマンというとやはり『ウルトラマンガイア』(1998)を連想させ、本作は「ニュージェネレーションガイア」ではないとはいえ、随所に感じられる繋がりのひとつである。

これらの設定部分でのリアリティラインが高く保たれているからこそ、怪獣へのSKaRDの対応に説得力が生まれる。観察を通して分析し仮説を立て実行する、この4ステップがSFドラマとしての面白さを形作っている。例えば、第5話で科学的な仮説が立てられて初めて絵巻物に信憑性を見出したり、第19話でテルアキの「ガス」仮説が外れたりするなど、細かい部分にもこの姿勢が徹底されている。

リアリティと言えば、本作の特撮はロケーションの多様さが印象的だ。第1話と第25話では実際の池袋や有明の街と怪獣が合成される。また、第2話ではプールを使用せずに港との実景合成により港町を再現、さらに19話では空撮との合成でブルードゲバルガの巨体を表現するなど、実景合成が効果的に用いられている。

また背景セットにも工夫が見られ、都市や田舎町といった似たような場所でもミニチュアの種類や配置、照明を変えることで別の場所に見せるようにしている。上記の実景合成や空中戦も合わせると毎回違った場所で戦っているということを映像から感じさせ、あの世界自体の実在感が高まっている。

ウルトラマンブレーザー

造形・アクション共にブレーザーはめちゃくちゃ私好みのウルトラマン。左右非対称の全体像に始まり、結晶体が飛び出た頭部、骨格が浮き出たようなフォルムに、赤青二色の遺伝子を思わせるライン。情報量は多いものの「生物的」という統一性があり、平成以降のウルトラマンの中でもかなり纏まったデザインだと思う。

頭部の傷らしき意匠や体の起伏に沿っておらずぐんぐんカットを見ても後天的に獲得したと思しきラインなど、意図的に違和感を盛り込んでいると思われるが、生物としてはむしろそれらの違和感が「自然」なものであり、その意味で万能の神故に左右対称である「ウルトラマン」とは対照的だと思う。

 

アクションに関しては敵を威嚇する、飛び跳ねるなど荒々しい所と、戦闘前の祈祷らしき独特のポーズや、肘や膝を多用し弱点を狙う容赦ない戦い方など文化や知性を感じさせる面もあり、総じて狩人っぽい印象がある。

またレインボー光輪、チルソナイトソード、ファードランアーマーなどを見るに、エネルギーや物質を武器に変えて使うことができると思われる。これまたモンハン狩人らしい設定で、苦戦が多いブレーザーが強敵相手に逆転できる理由付けにもなり、スパイラルバレードやレインボー光輪を変形させる(所謂「大喜利」)のは見ていて楽しい。そしてチルソナイトソードとファードランアーマーは最終話の「武装解除」に繋がっており、上手くドラマに活かされているのも良かった。

また本作は当初、ニュージェネ恒例のインナースペースが廃されたと思われていたが、第8話以降はブレーザーブレスを操作する手元だけを映した限定的な形で使用された。この手元インナースペース、本作が従来のお約束を廃した結果、却って残った少ないお約束が悪目立ちしているようで好きではなかった。だが、第14話のワンカット風演出に組み込んだのには感心したし、最終話には完全にやられた。ゲントの家族との絆を象徴するアイテムをブレーザーブレスと同じ左腕に集中させ、初めて顔を映すことで今までになくゲントとブレーザーの繋がりが強まっていることを端的に表現していて唸らされた。

 

そして、ブレーザーの特徴の中でも最も印象的なのが声。私はとにかくウルトラマンの声が好きで、ウルトラマンゼロ以降の声優や俳優の台詞と地続きのような感じよりは、昭和やティガ、ネクサスのような掛け声のみの声優が起用された人間とはどこか違う異質な声が好きだ。

それで言うとブレーザーは大好きだが、人間と違うとは言ってもどちらかというと獣っぽく、ウルトラマンの中でもかなり珍しいタイプ。巻き舌や叫び声、唸り声などとにかくうるさい。というかウルトラマンの声は飽くまで演出上のものだと思っていたのだが、明確に聞こえるものとして戦いにまで組み込んだ例は初なのではないか(技として使った前例はジードがいる)。

それに加えブレーザーは地球語が喋れない。田口監督曰く「宇宙人が地球語をしゃべるわけがない」とのことで、本作がSFとして考証を徹底した影響もあるようだ。彼と会話が成立しないからこそゲントやSKaRDは彼の行動を観察し、彼らの関係性の変化がドラマになっていて面白い。そしてその積み重ねの成果が、最終話でブレーザーが初めて地球語を発するあの感動的な瞬間である。

 

少し脱線するが、私はヒーローというものは「何処からともなくやってきて助けてくれる存在」と考えており、つまりは「都合のいい他者」だと思っている。なので程度問題ではあるが、実は私はヒーロー個人の人格を掘り下げるようなドラマには基本的には反対。宇宙から来たウルトラマンと変身する人間が別人格な融合系ウルトラマンは特にそうだ。

だから私は、人間とウルトラマンが対面し、ウルトラマンの他者性が際立つシーンが大好きなのだ。特に『ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT』や本作最終話のように、現実世界で大きさに差がある状態で向き合うのがたまらなく好き。

『Z』でのインナースペースや、本作での手を取り合うシーンなど同じ等身で向き合うシーンもそれはそれでいいのだが、超越存在であるウルトラマンが人類に目線を合わせてくれているようで、対等ではないと感じるのだ。

話を戻すと、あのシーンは私の知る限りウルトラマン史上で最も真摯に人間とウルトラマンの対話を描いており、本作のテーマである「コミュニケーション」の一つの到達点でもある。間違いなく本作のベストシーンだと思う。

SKaRDとアースガロン

本作のドラマの中心となるのが主人公のヒルマ・ゲントと彼が率いる特殊部隊・SKaRDの面々。どのメンバーも抑え目の演技で実在感のあるキャラクターになっており、個人的にとても好みのチームだ。

ゲントはウルトラマン変身者としては珍しく、特殊部隊の隊長かつ妻子持ちである。その立場上彼は上司と部下、家族と仕事、人間とウルトラマンなど様々な板挟みにあっている。責任ある立場故に決断を下さねばならないが、その結果として彼は何度も家族やハルノ参謀長、そしてSKaRDのメンバーを裏切るような形になっている。この決断力の表れが「俺が行く」なのだが、ある意味これは板挟みへの思考放棄ともいえる、少し危険な考え方だと思う。そして、そのある意味孤独なゲントが言葉の通じない相棒と手を取り、部下に仕事を任せることができるようになったのは、テーマに沿った確かな成長だといえる。

ここが本作の面白いところで、テーマであるコミュニケーションを「話し合って解決する」という安易なものではなく、むしろほとんど上手くいかないものとして描いている。誰よりもコミュニケーションに難を抱える人間を主人公にし、その難しさを端的にしかしリアルに描き続けるのはなかなか挑戦的だと思う。何せ爽快感がない。しかし同時に、それらの困難を経てたまに上手くいった時の喜びもまたリアルなもので、そのコスパの悪さ」こそが現実のコミュニケーションの本質を捉えているようでかなり共感できた。

これは他の4人のメンバーも同様であり、大切な相手と満足に意思疎通が出来ないままに終わるエピソードが彼ら全員にある。それでも彼らは自分なりに思いを向けたり受け取ったりして、それを自分の一部にして成長していることが第24話の自由行動シーンで示される。とはいえメンバー同士はウェット過ぎない範囲で仲良しになっていくので全体的に雰囲気は良く、関係性が徐々に変化していくのも見ていてほっこりする。

 

そしてアースガロンについては、『Z』以降の防衛隊ロボット初のオリジナルデザイン(明らかにメカゴジラを意識してはいるが)であり、複座式コクピットやハンガー、出撃シークエンスの描写に今までとは段違いに力が入れられており見応えがある。

戦闘での活躍はウルトラマンのサポート的役割が多く単独での怪獣撃破が少なく、これには不満を唱えるファンも少なくない。私も不満がないと言えば嘘になるが中盤からはそういう作風だと受け入れたし、だからこそ第21話でウルトラマンの領域である空でアースガロンがウルトラマンと対等な活躍を見せることの感動がひとしおだったというのもある。どちらかというと、早くに行動不能になりブレーザーの前座となる流れが定着していたが、最終回の展開を考えるともっと堅牢さをアピールして欲しかった。また、V99由来の技術であることも、事前に布石を置くことは出来ただろう。

戦績の奮わなさに関してはハルノ参謀長が繰り返し「ブレーザーより先に怪獣を倒せ」と言ってるのがノイズになってしまっていると思っていた。しかし最終回を経て、実はこれは作品の方向性に沿ったものだったと考えるようになった。

 

劇中でSKaRD及びブレーザーは何体かの怪獣を見逃しているが、この基準は「破壊活動をしようとしているか否か」だと私は読み取った。ドルゴやデマーガは暴れている理由が人間側にあり、ガヴァドンは被害は出してしまったものの本人の意図するところではなかった。そして最終話でのV99迎撃ではなくヴァラロンへの対処を優先するテルアキの判断が「良い」のも被害を抑えることを目的としているからである。つまり、参謀長の命令を達成するしない以前に、「怪獣を倒す」という目的設定自体が間違いということだ。

ただこれは正直言ってかなりわかりにくかった。まず参謀長の発言はウルトラシリーズ恒例の「地球は人類自らの手で守るべき」論でもあり、さらに曲がりなりにも直属の上司の発言なのだからこれが「正しいもの」と受け取られても仕方がない。

また「被害を抑える」ことがSKaRDの目的だというのもわかりにくい。まあ「防衛」隊である以上当然と言えば当然なのだが、作中で「命を守ること」を目的にしているとわかる(と思われる)のはゲントとブレーザーで、SKaRDに関しては明言されてない。

そして、(これが一番の手落ちだと思うが)本作は守るべき一般市民の描写がかなり少ない。ヒーロー作品には一般市民を守る描写は必須だと私は考えているのだが、本作は人間ドラマがSKaRD周囲に偏っていたため一般市民の印象が薄くなってしまった。

ただそうは言っても、「命を守る」という理念が作中で一貫しているのは立派で、それを読み取れなかったのは私の落ち度。対V99用兵器として作られたはずのアースガロンが彼らとの対話に使用されるのもその理念に完璧に沿った展開だと言える。

そして何より、私は第3話の時点でアースガロンの玩具代の元は取れていると言い切れる。それだけアースガロンの出撃シークエンスと初戦闘には満足させてもらったのだ。

本作が描いたコミュニケーション

V99については序盤から謎が撒かれつつ中盤以降纏められていくが、基本的にはよくわからない存在。事実と言えるのは、1999年にドバシがV99の船を撃墜したことと、V99が3体の怪獣を地球に送り込み、最後に船団が飛来したということだけである。しかし、本作のテーマを鑑みればV99はこれで良い。わからないままに思い込みで攻撃することを否定し非暴力による停戦を描くためには、むしろわからない方が良い

 

本記事でも幾度となく「コミュニケーション」に言及しているが、この表現は曖昧過ぎるのでここでより具体的にしておきたい。本作における「コミュニケーション」とは、知らないものを「知ろうとする努力」であり、わかったふりをして「決めつけること」の対極にあるものだと私は考える。(多分に私個人のコミュニケーション観も入っているが。)

本作は人間とウルトラマン、人間同士のコミュニケーションだけではなく、人間と怪獣とのコミュニケーションも描いている。『コスモス』のような和解や『X』のような対話こそないが、人間とは異なる怪獣の生態を科学的に分析し知ろうとすることもまたコミュニケーションである。(だからこそ、被害を出そうとしていないのに、怪獣だから悪と決めつけて排除することはきちんと否定されている。)

また、考証を徹底的に重ねるSFというジャンルの在り方は、それ自体が知ろうとする努力そのものである。「コミュニケーション」というテーマはドラマパートに限らず、SFを志向する本作の根幹と密接に結びついているといえる。

 

そしてここまでコミュニケーションの難しさをあらゆる角度から描いてきた本作が、クライマックスでV99に対する非暴力交渉という理想主義に振り切れる。これが本当に素晴らしいと思った。

そもそもヒーローもの、ましてやアクションが前提にある特撮ヒーローで非暴力を描くのは難しい。暴力は平和とは相容れないのに、平和を目指す手段として暴力を振るうという矛盾を特撮ヒーローは常に抱えている。それこそドバシはV99との争いの元凶ともいえる普通のヒーローものなら罰されるべき人物だが、本作では彼は罰されることなく終わる。誰かに責任を押し付けることは次の争いの火種になり得るので、(この瞬間だけでも)徹底した非暴力を描くにはドバシを罰して満足してはいけなかったんだと思う。

罪(と見做せるもの)を罰しないというのはヒーローものとして倫理的に危ういところもあるし、作品のほかの部分との整合性が取れていないと感じる所もあり、そもそも攻撃を仕掛けてくる相手に非暴力で応じるのはあまりに非現実的でもある。しかし、コミュニケーションの難しさと向き合い続けた本作だからこそこのメッセージに説得力が生まれるのだと思う。ドラマとしてのバランスを崩し、カタルシスを削いでしまうとしても、やはり私はフィクションだからこそこの非現実的な理想を描く価値があったと思う。

おわりに

ここまで長々と書いてきたが、本作には不満も多い。先述の参謀長の台詞やドバシの悪役ムーブ、ゲントの体調不良などが思わせぶりなだけで解決しない、アースガロンがV99由来なのが唐突かつ都合が良過ぎるなどシナリオ的に気になる部分が多い。またこれも先述したが、ブレーザーとのかかわり方がゲントとSKaRDで度々混同されているように見えるのも気になった。どうせならSKaRD個人個人のブレーザーへの印象の違いが反映されたドラマも観たかった。あと、特撮ヒーローものとしての盛り上がりが必要なのはわかるし、実際に私もノリノリだったけど、やはりヴァラロンは連れて帰って完全に停戦で終わらせて欲しかった!

 

しかしこれらの不満を考慮しても、私は本作が大好きだ。防衛隊と人間、怪獣とウルトラマン、そしてSFとしての作品の在り方の全てが『コミュニケーション』というテーマに集約される構造とその末に描かれた理想は本当に素晴らしかった。文句なしで個人的ベストウルトラマンのひとつになりました。この作品を作ってくれた方々に心から感謝します。

『ゴジラ-1.0』感想:破壊神ゴジラの新たな雄姿

今回は遅ればせながら『ゴジラ-1.0』の感想。

正直この作品はあまり気が進まず先送りにしていたのだが、年末に『ゴジラ』(1954)を観たこともあり、正月休み最終日を利用して行った。

気が進まなかった理由としては、インターネットで見られる一部のファンによる過剰な持ち上げと、擁護派による(筆者から見れば至極真っ当な)批判への抑圧がとても嫌な感じだったから。鑑賞後の今でも、批判は妥当なものだったと思っている。

こうは言いつつも、全体的な感触としては結構楽しめた。普通に見て良かったと思える。これだけ迫力のある怪獣映画が日本で作られ、海外でも高い評価を得ているのは素直に嬉しいが、同時に見過ごせない問題も多々あると感じたのでこの記事で消化したいと思う。当然ネタバレ全開なのでご注意。

 

 

 

 

 

デカい・コワい・カッコいい、三拍子揃ったゴジラ

山崎貴が白組所属故に調整がしやすいのか、かなり大胆に近距離からゴジラを映しており、ゴジラの大きさが際立っていて良かった。またかなり良く動き、2014年のギャレス・エドワーズ版以来のCGゴジラの中でも最もCGの利点を活かしているように感じた。

シン・ゴジラは人間とは比較にならない巨大さで移動するだけで被害を及ぼす災害のようなものだったが、マイゴジは人間との対比で大きさが強調され、積極的に人間に襲い掛かってくる獣として描かれており、かなりわかりやすく差別化されている。

また地上での破壊シーンに顕著だが、建物の瓦礫やゴジラ自身にもあまり重量感がなく、街を含め全体的に作り物っぽい。私は基本的に着ぐるみやミニチュア、実写合成の特撮が好きなのだが、今回は意外にもファンタジー的タッチのゴジラとしてこれはこれでアリだと思った。ゴジラが傷つき再生する様や、放射熱線で背びれが動くギミックも着ぐるみとはかけ離れたもので、独自のゴジラ像が確立されているのではないかと感じた。

 

本作のゴジラ登場シーンの中でも素晴らしいのがメインとなる海上でのアクション。ゴジラが元々海洋生物であることを思い出させる悠々とした泳ぎっぷり、中でも新生丸とのチェイスシーンは船や軍艦との大きさの対比に、敷島たちがゴジラに一矢報いる工夫が光り、ゴジラが再生する絶望感もあり本作でも一番の見所だと思う。

ゴジラ以外にも、戦艦や戦闘機についても造形・アクション共にかなり楽しめた。筆者はミリタリーにはど素人で知識は皆無だが、あれだけディティールのしっかりした戦闘機・戦艦・ボロ船がゴジラと対峙する様は見ていてとても興奮するものだった。

 

不満点として、全体的にゴジラの登場シーンが短いことが挙げられる。短いというよりもほぼ毎回唐突に現れて唐突に帰っていくのでどうにもダイジェスト感があり、どのシーンも見ていて少し物足りなかった。せっかく魅力的なのだから、もっとゴジラをたくさん見せて欲しかった。

また前述のように今回のゴジラは積極的に人間を殺しに来るのだが、その割に血や死体が画面に映らず嘘っぽく見えてしまうのは気になった。恐らく年齢制限を回避するためだろうが、それならば敢えて人を噛んだり踏みつぶしたりする描写を入れなくてもよいのではと思ってしまった。

結果的に戦争を肯定してしまう論理

ドラマは全くと言っていい程楽しめなかった。

山崎貴お馴染みの説明台詞と過剰な演出は健在で、せっかくの俳優陣の演技の余韻をことごとく壊していく。映像から読み取れる情報を逐一説明し、あらゆる感情を過剰に表現するから一本調子で見ていて辛くなる。ただ、数少ない説明台詞無しのシーンの一つに敷島の慟哭シーンがあり、あのシーンだけは言葉もない敷島の激情が表現されていて良いシーンだと思う。

 

ストーリーにもかなり文句があるのだが、何よりも信じられなかったのが本作が仮にもゴジラなのに(少なくとも部分的に)戦争を肯定してしまっていること。

海神作戦の会議中、ある元海軍と思しき男が「また俺たちに船に乗れと言うのか」と発言する。参加は強制ではないことを告げられ、彼は会議室を去る。その後、また別の人の発言をきっかけに「無駄死にではない」「守るためだ」「誰かが貧乏くじを引かなくてはならない」という理屈で多くの人間が作戦への参加を決めるが、最初の一人が唱えた「また戦争をするのか」という疑問はこの後一切議論されない

作戦立案者の野田によって「人命を軽視しない作戦」にしようとフォローは入るが、敷島は脱出装置取り付け前から戦闘機に乗る気満々、兄貴分である秋津は年若い水島を作戦から外すなどこの作戦に命の危険が伴うことは明らかで、野田のフォローは詭弁でしかない。その上で、再び戦地に望む兵士たちを「活き活きしている」と肯定的に描いてさえいる。

 

勿論、特攻隊員の犠牲を描き第二次世界大戦という特定の戦争の悲惨さ、それを起こしてしまった旧大日本帝国を批判的に描くことで「反戦」を訴える日本映画の文脈はあるだろう。また、攻撃を受ければ自衛のための戦争がやむを得ない場合もあるだろう。しかし、戦力の行使という手段を取った事自体への批判が全くなく、単なる防衛戦争とはまるで意味が違って見えた

元軍人を集め、戦艦や戦闘機を調達しながらやたらと「民間」を強調し、前述のように「ましな戦争」があるかのように錯覚させる語り口は、むしろ戦争を始めるための大義名分にさえ聞こえる。これが戦争に臨む国家の異常な空気感への皮肉ならまだ理解できるのだが…。

 

ただ個人的な推測だが、この戦争に関するスタンスに山崎貴の思想が強く表れているというよりは、「ゴジラと旧日本軍の戦闘」という見せ場ありきで、大衆ウケが良いように「反戦」っぽいラッピングを施しただけではないかと思う。

しかし、『ゴジラ』(1954)では大量殺戮兵器を使用する代償として、その兵器の開発者である芹沢博士は自らの死を以て兵器を封印する。『シン・ゴジラ』(2016)では鉄道や重機などのインフラと科学技術を使用しゴジラを凍結する。同じ戦後昭和の時代設定であり元祖である『ゴジラと、最も近い時期に日本で作られた『ゴジラが、わざわざこれだけ徹底的に戦力の行使を忌避していることと比較して、本作は「反戦映画」としては不徹底だと私は考える。

敷島に都合の良すぎる物語

またキャラクター造型にもかなり不満がある。特に主人公である敷島について、本作のドラマは完全に彼を中心に展開されるが、それを差し引いてもかなり彼に都合よく周囲の人間が動かされているのが気になった。

野田は作戦会議の途中で去ろうとする敷島を会議を中断してまで引き留め、彼のために戦闘機を用意するなど敷島を高く評価している。しかし敷島は訓練の成績は良いとされているが、実戦経験はないため野田から見て彼の実力を判断する材料はなく、この評価は不自然である。(新生丸で機銃の腕前を見てはいるが、操縦に関しては未知数のはずである。)

また敷島の要望でかつて大戸島の悲劇を共に味わった元整備兵の橘を作戦決行を延期してまで捜索しているが、これははっきり言って大戸島でのトラウマを解消したい敷島のエゴであり、作戦よりも一兵士のエゴを優先する理由はない。橘はどうやら整備兵として凄腕らしいが、(観客にとっても敷島にとっても)それがわかる描写は劇中には見当たらない。

そもそも彼は典子、明子への接し方や橘の呼び寄せ方などトラウマを抜きにしても人格に問題があるように見えたので、そんな彼が人望を集めていること自体違和感がある。

 

筆者は浜辺美波が割と好きなので、典子の扱いの雑さも見ていて辛かった。当初は他人の子供を連れたガサツな女として登場するが、間もなくガサツさはどこへやらいかにも昭和的な貞淑な妻に変貌する。飲み会の場面に顕著だが本当にジェンダーロールが酷く、これが令和の映画なのかと目を疑った。これに関して「昭和の実情を忠実に描いているだけだ」という意見も見るが、実情の再現自体ではなくそれを女性がどう感じているかを描写しないことが問題で、その「女性の視線の排除」という図式もまた昭和的という入れ子構造になっていて本当に救いがたい。

また彼女は敷島が危険を伴う仕事に就くことに終始反対しており、終盤で敷島がゴジラを殺すために特攻も厭わなくなることに最も批判的な意見を唱えられる立場であった。しかしあろうことか、彼女は終盤を目前に退場させられ、敷島の覚悟を後押しする原因になってしまう。つまり男たちの自己実現のための戦争をを正当化するために、戦争で家族を奪われる女の悲哀を意図的に排除しているのだ。敷島が生き残った「ご褒美」として「生き返らせられる」ことも含めて、ご都合主義も甚だしく不愉快だった。

 

長くなったが一点だけ本作のドラマを擁護しておくと、本作のドラマの内容はシンプルで薄味なものだが、これは怪獣エンターテインメントとしては間違いではない。もちろんドラマ自体も見所として機能するに越したことはないが、本不要な要素が削ぎ落され深く考えさせる内容のない本作のドラマは、真の主役たるゴジラの活躍の大きなノイズになることはなかった。(削ぎ落して残った要素がそれかよ!というのがここまで垂れ流してきた批判である。)

そもそもこの映画なんなん?(余談)

この映画は敗戦直後の日本を舞台にしてはいるが、私はこの時代設定にそこまでの意味を見出せなかった。描写が敷島の周囲に偏っていることもあり、その時代の人々の生活感や風土が描かれないためどこか作り物っぽく現実感がない。極論、戦後の敗戦国という要素さえあれば異世界、あるいは歴史のIF(例:戦後も大日本帝国が存続した世界)と言われても頷いてしまいそうで、先述したゴジラの質感もあってこの作品はファンタジーだと感じながら観ていた。

 

この映画は海に沈んだゴジラが再生する様子が映されて幕を閉じ、エンドロールの最後にはゴジラのものと思しき足音が響き渡る。前者は『ゴジラ』や『シン・ゴジラ』に通ずる、ゴジラの脅威が終わったわけではないという描写だと言えるが、後者は異質だ。

この足音については様々な解釈ができるが、私はゴジラが再生を終え既に日本に迫っていると解釈した。「戦争そのもの」についての反省をせず、戦争のメタファーであるゴジラに戦争で応じるという間違いを侵してしまった日本は、これから無限に再生するゴジラという怪物との終わりなき戦争を強いられるということなのではないか。

正直これは本作のドラマに大きな不満があり、観ているうちに人間よりゴジラの方を応援していた私に都合のいい、偏った解釈である。実は作り手も本作のドラマの現実感の無さと欺瞞を自覚していて、最後にそれを否定し破壊したがったというのは、いくら何でも深読みし過ぎだと思う。

ここまで書くと誤解される可能性があるので一応弁明しておくが、私は日本が無抵抗でゴジラに破壊されればよかったと言っているわけではない。防衛戦争をするにしても、戦争を起こしたことそのものへの反省は明確にしなければならない、という主張である。少なくとも私から見て、文脈上「第二次世界大戦」「特攻」「大日本帝国」への反省ではあっても「戦争を仕掛けたこと」への反省といえるものは見当たらなかった。

おわりに

分量としては批判の方が多くなってしまったが、これでもこの映画には概ね満足している。それはひとえにゴジラのデカさ・コワさ・カッコよさによるもので、それは白組と密接な連携を取り最大限に力を発揮させられる山崎貴監督あってのものだろう。山崎貴監督、ゴジラを撮ってくれてありがとうございます。

『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』感想:マリオに限りなく似た何か

さて、新年一本目の記事は大晦日に鑑賞した『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』の感想。本当は『ゴジラ』の感想を先に挙げようと思っていたのだが、こちらの方が早く済みそうだったので。

2023年4月に日本でも公開され大いに話題になった本作、一応は任天堂ファンを自称する筆者も気にはしていたものの、食指が動かなかったので劇場へ足を運ぶには至らなかった。

今回鑑賞したのは(家族と過ごしてることもあり)大晦日に普段観るような辛気臭い映画を観るのも気が引けたので、「無難なファミリームービー」を求めたからだったのだが、大ハズレだった。ゲームをしない家族はもとより、そもそも引用や小ネタを楽しむ文化が希薄な我が家に、至高のファンムービーとでもいうべき本作はあまりに不向きだった。

以下、私個人の感想を述べていく。既に述べたように食指が動かなかった映画をわざわざ見る辺り当たり屋感は否めないので、本作が好きな人には読むことをお勧めしない。

 

ゲームを想起させはするが、超えはしない演出

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このトレーラーで映るのはごく一部と言っていいくらい、本作にはゲームのマリオシリーズに登場したキャラクターやアイテムがこれでもかと登場する。マリオ&ルイージ兄弟にクッパとピーチ姫のメインキャラ、さらにドンキーコングやモブキャラ的に大量に出るキノピオやノコノコなど。更にコインやキノコ、宙に浮くブロックなども登場し、アニメ映画の中にマリオの世界を作る要素が敷き詰められている。音楽もゲームの印象的なテーマの数々が引用されている。

また、アクション面でも「(スーパー)マリブラザーズ」シリーズや「レッキングクルー」、「マリオカート」シリーズそのままと言っていいシーンが上質なCGアニメによって表現されていて、確かにこれはなかなか楽しかった。特に最初のアクションシーンが伝統的な横スクロールを模しながら、舞台はブルックリンの市街地なので、単なるゲーム版の踏襲ではないオリジナリティが感じられて良かった。

 

だが、個人的に期待していたのは映画ならではの表現でマリオを描くということだったので、楽しかったのは間違いないのだが飽くまでゲームの再現止まりで、それならゲームをやればいいや、と感じてしまった。少なくとも私にとっては、「自分で操作できなくなったゲーム」だった。

一応補足をしておくと、筆者は初めて遊んだマリオが『スーパーマリオサンシャイン』(2002年、ゲームキューブ)であり「マリオは3Dなのが当たり前」という肌感があるため、上述の2D作品が3DCGアニメーションで立体的に表現されたことへの感動は比較的に薄かった、というのはある。

文法がアメリカ過ぎる

本作のストーリーはかなりシンプルなものだが、それでもゲームシリーズに比べると世界設定や人物造形は細かく提示される。ビデオゲームに比べ現代の大衆映画の方が求められる情報量が多く、ゲームを映画化する際には行間を補う必要があるのは当然だ。しかし、その行間を補うものがアメリカのアニメ映画にありがちなものばかりで、私は胸焼けしてしまった。

あの世界を異世界として、主人公が迷い込み魔王の打倒を目指すという王道ファンタジーもののプロットはまだいい。種族ごとに国が分かれているのもいい。キノコ王国の城下町の商店や銀行、移動用の土管などはテーマパーク的な楽しさがあるもののどこかで見たようなもので、王国がどう成立しているかさえあやふやな絵本的ミステリアスさを湛えた世界が陳腐化してしまった感は否めない。突然地面から土管が生え、人が飛び出してくるような不条理さは、本作のキノコ王国からは感じられなかった。

スーパーマリオ64』(1996、N64)のオープニング。

そしてそれ以上に違和感があったのが、表情や会話、キャラクターの性格、それにストーリー展開までもがアメリカのアニメに典型的な(それもかなり単調な)ものになっていること。

誰もがやる片眉を上げるおどけた表情や、キノピオの「かわいい」連呼や牢獄にいるチコ「ルマリー」の不安を煽る喋りなどつまらないのに繰り返されるギャグ。ストーリーも周囲からバカにされていた人の自己実現というありきたりなもの(これに関しては日本でもよくあるが)。洋楽の引用も雰囲気をファンタジーから遠ざけるばかりである。

元々筆者がそれらの要素が苦手というのもあるが、それを抜きにしてもゲームのマリオには欠片ほどもないものばかりであり、これが本作はマリオの映画化というよりも平凡な映画にマリオの皮を被せただけの何かだと筆者が感じた理由である。アメリカで育っていれば気にならないのかもしれないが。

生々しい暴力

映画用に補完されたマリオの世界で浮き彫りになったのが、マリオが本質的に秘めている暴力性である。

前提としてほとんどのマリオ作品は敵を倒して自分は倒されないようにする、つまり「やるかやられるか」のゲームであるという点で暴力的だと私は考えている。その暴力性は様々なコミック的描写(マグマに落ちれば尻に火が付く、クリボーを倒せば煙になって消える等)と、簡略な人格や設定によりデフォルメされている。しかし本作では前述のように大衆映画として成立するように行間が補われているためにこのデフォルメが弱まり、暴力描写が酷く生々しくなったと感じた。

特に何もしていないのにバナナの皮を踏まされてクラッシュする一般車、ドンキーコングにタコ殴りにされるマリオ、クッパに捧げられる生贄の面々。彼らにゲームキャラ以上の人格が備わってしまったことで、私はこれらの暴力にリアルな不快感を感じた。マリオがマグナムキラーを土管に入れたせいで、ブルックリンにはどれだけの被害が出たのだろう...。

 

それでいて、本作は死を描くことは意図的に避けているようにも見える。マリオで最も弱い敵キャラであるクリボーが踏みつぶされるシーンがたった1回しかなく、そのシーンでもクリボーは完全に潰れきる前に画面からフェードアウトする。

勿論、クッパに焼かれカロンになるノコノコ、ピーチに爆破されるボムキングなど、実際に死んだと思しきキャラがいない訳ではない。しかし、上述の暴力性にしては少なく、さらに前述のルマリーが繰り返し死を仄めかしてくることもありその少なさは不自然に感じられる。ゲームに比べて、行使される暴力とその結果が釣り合っているように見えないのだ。

結末への不満

私は本作のキャラクター造型を批判したが、実は好きなキャラクターが一人いる。クッパだ。歌を捧げ、照れながら何度もプロポーズの練習をする等ピーチへの想いは一途ながら、そのために特にピーチが望んでもいないスーパースターや生贄を用意したり、ペンギン王国を滅ぼしキノピオを拷問するなど残虐な行為も厭わない。これらの要素がナチュラルに両立されており、本作唯一といってもいい、現実の人間の価値観とはかけ離れた完全なファンタジーの存在だったと思う。(クッパはゲームでもマリオや味方キャラに比べて台詞が多いため違和感が少ないというのもある。)

 

そんなクッパは結局ピーチに強要したプロポーズを反故にされ、マリオには敗北し小さくされて鳥籠に閉じ込められる。ここに私は違和感を覚える。前述したように本作はバカにされた者の自己実現のストーリーだが、マリオがバカにされた理由の一つが低身長である以上、その敵であるクッパを小さくして終わり、というのは問題なのではないか。

そもそも単なる異邦人であるピーチが姫にまで祀り上げられるなど、本作は異世界を舞台にしながら人間優位の外見主義を感じさせる部分がある。(ゲームでも味方は人間、敵は非人間という構図ではあるので、これは異世界にしてしまった弊害といえる。)ピーチがクッパのプロポーズを断ったのは悪人だったからで、カメだったからではないと言えるのだろうか。

 

もちろんクッパが罰されるのはその悪行故ではあり、そうでなくとも交友関係もない人物からの突然のプロポーズなど受け入れられようはずもない。しかし、クッパとマリオの疑似的な共闘を描き、ピーチから袖にされた者同士としてマリオとの友情の芽生えさえ感じさせたスーパーマリオ オデッセイ』(2017、Switch)の後に見れば、これは革新的なエンディングとは言えない。本作のクッパが魅力的であるが故に、尚更残念である。

おわりに

本作はゲームのマリオシリーズを想起させる演出やクッパのキャラクターなどの魅力はあるものの、陳腐な設定やストーリー、暴力描写の生々しさなど問題は山積みであり、1本の映画として見れば個人的にはかなり不満が残る作品だった。

正直、本記事で挙げた問題点が全く気にならない、「そういうものでしょ」で片付けられる人は少なくないと思うし、この「1本の映画として」という前提自体がファンムービー的性質と相反する偏ったものだという自覚もある。ファンムービーと単体の完成度を両立した作品が1本でも多く作られればいいのだが。

しかし、マリオをやりたくなったことは間違いない。この記事も『スーパーマリオブラザーズ2』(1996、ファミリーコンピュータ)と『スーパーマリオ64DS』(2004、DS)を遊びつつ書いているし、まだ触ってない『スーパーマリオブラザーズ ワンダー』(2023、Switch)も遊ばなければという気持ちになった。そういう意味では販促としては機能しており、観た意味は十分あったと言える。