お前も茶漬けにしてやろうか!-茶柱の人生丸茶漬け-

見た作品のその時々の感想置き場

『機動戦士ガンダム 水星の魔女』シーズン2及び総括感想:ストーリーを作るのは誰か

7月2日、『機動戦士ガンダム 水星の魔女』の最終回が放送された。前日譚に当たる『機動戦士ガンダム 水星の魔女 PROLOGUE』の公開が昨年の7月14日なので、この番組は1年かけて展開してきたといえる。アニメ本編は全24話だが、シーズン1と2の間の3ヶ月間もWEBラジオや複数回の特番、小説版の発表など宣伝は絶えず注目を集め続けた。

私もシーズン2を心待ちにしていたのだが、実際に見ての感想は…。

PROLOGUE及びシーズン1の感想はこちら。

teapillar.hatenablog.com

teapillar.hatenablog.com

以下ネタバレ注意。

 

 

 

 

 

 

対話なしの免罪

第1話時点でミオリネとグエルは父親の支配下にあり、シーズン1を通して彼らは支配から抜け出そうとそれぞれもがいてきた。そして、主人公であるスレッタもまた母プロスペラの支配下にあったことが判明したところでシーズン1は終わった。

シーズン2では彼ら、特にスレッタが親とどう向き合うかが描かれることを期待していたが、消化不良だった。ミオリネとグエルは親の支配によって苦しんでいたにもかかわらず、大した葛藤もなく親の仕事を引き継ぐ。スレッタは母が自分ではなくエリクトのみを本当の子と見做していると気付きながら、それでも母を想い行動する。

3人全員が親を受け入れること自体もだが、何より違和感があるのは彼らが第三者から聞いた情報だけで勝手に納得し、親との碌な対話もないままに親を受け入れる。だから親たちは自身の所業を省みて謝罪する場面もなく、なあなあで良さげな雰囲気になる。

そしてラストシーンについて。スレッタは水星に学校を作るという夢を叶え、地球にも新たに学校を作ろうとしている。また、ミオリネは地球で起こっているデモの調停を行う様子が描かれている。そして、スレッタとミオリネは正式にパートナーとなり、二人とも幸せに暮らしているように見える。

しかしスレッタは最後の決戦の後遺症でプロスペラ同様に身体に障害を負っており、ミオリネの行動も総裁選前の事件の償いをしている形だ。彼女たちは大人になった後も親の負債を抱えたままだ。そしてその両方の元凶となったプロスペラは許されている。この点において私は、いくら当人たちが幸せそうにしていてもこの結末がハッピーエンドだとは到底思えなかった。

ただ、ベルメリアとエラン(5号)の関係は例外といえる。エラン(5号)はベルメリアが人体実験に関与してきた事実を突きつけ、被害者として振舞おうとするベルメリアの偽善を許さなかった。ベルメリアは自身の生き方を後悔しつつも、最終的にミオリネなど若い子供たちを守るために銃をプロスペラに向ける。すべてが終わった後エラン(5号)は強化人士の役目から解放され旅に出る。親は子への仕打ちを反省し子は解放され自由になるという形で、メインキャラたちとは対照的である。ここで肝なのはベルメリアはエランから許されたわけではないこと、さらに言えばそもそもベルメリアを好きな人物が特にいないことで、彼女は誰かに許されるためではなく自分自身のために必死で償いを行ったのだ。謝罪もなしに勝手に許された親たちとは正反対である。何故サブキャラクターで出来てメインキャラで出来なかったのか。

持て余されたキャラと設定

シーズン2では元々多かったキャラクターがさらに増え人間関係が複雑化したが、処理しきれていないと感じた。シーズン1ではスレッタとミオリネの2人が軸になっていたが、シーズン2ではこの2人がドラマに関与しないことが多かった。そのため終盤のスレッタがキャリバーンに乗る展開や、スレッタとミオリネが結ばれることにさえ説得力が感じられず形式的なものに見えてしまった。

また、多くの重要な設定の描写が不足しているため、キャラクターの目的が判然としない。特にクワイエットゼロの実態がまるでわからないのが致命的で、デリングのものとプロスペラのものがどう違うのか、プロスペラの言う「エリクトが幸せな世界」とはどういう状態なのか、それがどうして多くの人々の命を危険に晒すのか。これらすべてが示されないまま引き継ごうとしたり止めようとしたりするので訳が分からない。

また、シャディクをはじめ多くのアーシアンが問題視している宇宙と地球の格差をまともな説明がなされぬままだ。格差の原因と思しき戦争シェアリング、それを形成したベネリットグループや調停機関の宇宙議会連合、その他さまざまな要素が不明瞭である。にもかかわらず地球を舞台にしたエピソードは全25話中たったの2話で、私が上記のキャラクターたちに寄せられる共感もそれ相応のものになってしまった。

ガンダムの呪いの行方

ガンダムエアリアルは私にとって本作を見る最大のモチベーションの一つだった。ガンダム以外も含めた過去のロボットアニメの要素を備えつつも綺麗にまとまったデザイン、穏やかなスレッタに似つかわしくない無慈悲な戦い方、スレッタと会話する人格の謎など魅力に溢れていた。しかし、ここに関してもシーズン2はうまくやっているとは言い難い。

そもそも、改修後のエアリアルは目立った活躍がない。12話でのガンビットライフルは敵を撃墜しておらず、14話ではフィールドを展開しただけでソフィが自滅。そして18話における、婚約者、母親、対戦相手、そして乗機エアリアル自身までもが加担したスレッタにあまりにも酷な八百長試合を最後に主人公機としての登場はない。エアリアルの後継となるキャリバーンの扱いも酷いもので、登場が22話と非常に遅い。さらに、実際に参戦するタイミングがほぼ同じシュバルゼッテと違い事前に名前や姿が示唆されることもなく、かなり唐突に登場するので愛着も沸きづらい。魔女の箒を模したデザインは非常に魅力的なのに勿体ない。

シーズン1は戦闘シーン自体は少ないながら、その活躍がエアリアルに集中していたため瞬間的な熱量は高く、個人的には満足していた。しかし、前述の通りシーズン2ではエアリアルはほとんど活躍しない。戦闘の内容自体も決闘の爽快感に代わる楽しみを提供しきれていないと感じた。中盤の実質的な主人公であるグエルとともに戦ったダリルバルデが悪いわけではないがそもそも本作は「ガンダム」であり、そこを覆すほどの魅力やドラマ的必然性は感じられなかった。

謎に関しても不透明な部分が残っている。例えば、エアリアルに宿ったエリクト以外の人格、カヴンの子に全く意味がないこと。まずシーズン1の段階からガンビット一つずつに人格が宿っていることが示唆され、実際に11人のリプリチャイルドが宿っていたのだが、ルブリスの頃からビットは使用できているので彼女たちがビットを操る必要があるわけではない。もしかしたら性能差があるのかもしれないが、劇中にそのことを読み取れる描写はない。さらに、スレッタを含め彼女らがいつ、どうやって生まれ、どのような経緯で12分の11がエアリアルに宿ったかもわからない。そしてエピローグではエリクトだけが生き残っており、残り11人のことは完全に忘れられている。ドラマでの役割は皆無といえ、ビットの数だけ人格が宿っているというビジュアル先行で深く考えず導入された設定と言われても仕方がない。

また、肝心のエリクトの性格描写も決定的に足りていない。母の計画に賛同していることだけはわかるが主体性は感じられず、自分が生きられる世界を作る計画を彼女自身がどう思っているかよくわからない。むしろこの主体性の無さがかつてのスレッタと重ね合わされ、成長したスレッタとの対比になる可能性もあったが、やはりそう言い切るにはエリクトの描写が少なすぎる。ついでに、あの残虐なファイトスタイルに惹かれていた者として、それが幼さ故のものなのか、彼女自身の気質なのかもできれば知りたかった。

そして、ガンダムの呪いへの結論も出ていない。パイロットの命を危険に晒すガンダムはプロローグからデリングによって否定され、株式会社ガンダムにより原点でもある医療技術への応用が模索され、GUND-ARM技術が呪いを克服する道は示されていた。しかし最終的になんとほとんどすべてのガンダムが超常的な力で文字通り消滅する

兵器としての側面を「消滅」させたということは、医療技術というポジティブな利用法を追求するだけでは結局呪いは克服できず、ご都合主義でネガティブな側面と向き合うことから逃げたように私には見えた。第一、株式会社ガンダムは当初エアリアルの保護のために設立されたはずなのに、最終的にエアリアルが保護を訴えたスレッタ自身の手によって消滅しており本末転倒である。どちらにしても株式会社ガンダムの視点から見たら完全に「失敗」だと思うのだが、どういう訳か感動的な雰囲気で締めくくられている。

「水星の魔女」とは何だったのか

ここまで挙げてきた以外にも問題点は指摘しきれない程あり、本作のストーリーは破綻しているとの感想だ。センセーショナルな設定や展開を矢継ぎ早に盛り込んだはいいが、それらを一つの物語に統合することはまるでできていない。その場の盛り上がりにすべてを賭ける娯楽重視の作品と見做そうにも、差別や戦争、親子関係や男女格差といった現実に通じる問題を半端に深刻な手つきで扱ってしまったことがノイズになる。シーズン1の名残から一貫性を見出そうとしても到底ハッピーエンドとは言えず、にも関わらず「祝福」といわれるのも納得がいかない。

この傾向の煽りを誰よりも受けたのがヒロインのミオリネ(私の推しキャラ)であり、彼女はエキセントリックな戦略を提案はするものの大した考えも問題意識もないため、手痛い失敗をしてトラウマを負った。にもかかわらず最終盤で同じように思い付きでベネリットグループを売却するなどまるで反省の色が見えない。職を失って首を吊る人も少なくないと思うのだが...。場当たり的にアイデアは出すものの、自身が心の底からやりたいことを最後まで見つけることのなかったミオリネの生き様は本作の空虚なストーリーと重なる。彼女はスレッタ以上に空っぽで、最後までそのまま変わらなかった。

ただ、本作は部分を取り出して見れば魅力的なことは確かで、散りばめられた数々の要素から都合よく取捨選択をしてそれぞれにストーリーを作り出すというスタンスであれば案外楽しめるのかもしれない。実際に毎週放送後のtwitterでは必ず関連語がトレンド入りしており、イラスト・文章を問わず二次創作が盛んで、考察という名の妄想が飛び交う現代のオタクコミュニティにはフィットしていたのかもしれない。誰かが言っていた「イベント発生型の乙女ゲーム」の例えが私には一番しっくり来た。

ひとつひとつの設定は魅力的だし、いくらでも面白くする余地はあったと思う。瞬間的な熱量の高さも毎週放送のアニメとしては正しく、私もニチアサで育った身なのでそういうのは大好きだ。何より、キャラクター・メカニックデザインや映像表現、音楽や声優の演技といった素材の力強さは相当なもので、私が単純だからかもしれないが、シーン単位で見れば今でも少しウルッと来るパワーがある。文句もたくさん言ったが、それだけの情熱はあったということであり、「好きの反対は無関心」というあの有名な言説に則れば間違いなく好きである。願わくば、この設定をよりうまく活かせるようなストーリーとともに見たかった。