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『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』感想:マリオに限りなく似た何か

さて、新年一本目の記事は大晦日に鑑賞した『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』の感想。本当は『ゴジラ』の感想を先に挙げようと思っていたのだが、こちらの方が早く済みそうだったので。

2023年4月に日本でも公開され大いに話題になった本作、一応は任天堂ファンを自称する筆者も気にはしていたものの、食指が動かなかったので劇場へ足を運ぶには至らなかった。

今回鑑賞したのは(家族と過ごしてることもあり)大晦日に普段観るような辛気臭い映画を観るのも気が引けたので、「無難なファミリームービー」を求めたからだったのだが、大ハズレだった。ゲームをしない家族はもとより、そもそも引用や小ネタを楽しむ文化が希薄な我が家に、至高のファンムービーとでもいうべき本作はあまりに不向きだった。

以下、私個人の感想を述べていく。既に述べたように食指が動かなかった映画をわざわざ見る辺り当たり屋感は否めないので、本作が好きな人には読むことをお勧めしない。

 

ゲームを想起させはするが、超えはしない演出

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このトレーラーで映るのはごく一部と言っていいくらい、本作にはゲームのマリオシリーズに登場したキャラクターやアイテムがこれでもかと登場する。マリオ&ルイージ兄弟にクッパとピーチ姫のメインキャラ、さらにドンキーコングやモブキャラ的に大量に出るキノピオやノコノコなど。更にコインやキノコ、宙に浮くブロックなども登場し、アニメ映画の中にマリオの世界を作る要素が敷き詰められている。音楽もゲームの印象的なテーマの数々が引用されている。

また、アクション面でも「(スーパー)マリブラザーズ」シリーズや「レッキングクルー」、「マリオカート」シリーズそのままと言っていいシーンが上質なCGアニメによって表現されていて、確かにこれはなかなか楽しかった。特に最初のアクションシーンが伝統的な横スクロールを模しながら、舞台はブルックリンの市街地なので、単なるゲーム版の踏襲ではないオリジナリティが感じられて良かった。

 

だが、個人的に期待していたのは映画ならではの表現でマリオを描くということだったので、楽しかったのは間違いないのだが飽くまでゲームの再現止まりで、それならゲームをやればいいや、と感じてしまった。少なくとも私にとっては、「自分で操作できなくなったゲーム」だった。

一応補足をしておくと、筆者は初めて遊んだマリオが『スーパーマリオサンシャイン』(2002年、ゲームキューブ)であり「マリオは3Dなのが当たり前」という肌感があるため、上述の2D作品が3DCGアニメーションで立体的に表現されたことへの感動は比較的に薄かった、というのはある。

文法がアメリカ過ぎる

本作のストーリーはかなりシンプルなものだが、それでもゲームシリーズに比べると世界設定や人物造形は細かく提示される。ビデオゲームに比べ現代の大衆映画の方が求められる情報量が多く、ゲームを映画化する際には行間を補う必要があるのは当然だ。しかし、その行間を補うものがアメリカのアニメ映画にありがちなものばかりで、私は胸焼けしてしまった。

あの世界を異世界として、主人公が迷い込み魔王の打倒を目指すという王道ファンタジーもののプロットはまだいい。種族ごとに国が分かれているのもいい。キノコ王国の城下町の商店や銀行、移動用の土管などはテーマパーク的な楽しさがあるもののどこかで見たようなもので、王国がどう成立しているかさえあやふやな絵本的ミステリアスさを湛えた世界が陳腐化してしまった感は否めない。突然地面から土管が生え、人が飛び出してくるような不条理さは、本作のキノコ王国からは感じられなかった。

スーパーマリオ64』(1996、N64)のオープニング。

そしてそれ以上に違和感があったのが、表情や会話、キャラクターの性格、それにストーリー展開までもがアメリカのアニメに典型的な(それもかなり単調な)ものになっていること。

誰もがやる片眉を上げるおどけた表情や、キノピオの「かわいい」連呼や牢獄にいるチコ「ルマリー」の不安を煽る喋りなどつまらないのに繰り返されるギャグ。ストーリーも周囲からバカにされていた人の自己実現というありきたりなもの(これに関しては日本でもよくあるが)。洋楽の引用も雰囲気をファンタジーから遠ざけるばかりである。

元々筆者がそれらの要素が苦手というのもあるが、それを抜きにしてもゲームのマリオには欠片ほどもないものばかりであり、これが本作はマリオの映画化というよりも平凡な映画にマリオの皮を被せただけの何かだと筆者が感じた理由である。アメリカで育っていれば気にならないのかもしれないが。

生々しい暴力

映画用に補完されたマリオの世界で浮き彫りになったのが、マリオが本質的に秘めている暴力性である。

前提としてほとんどのマリオ作品は敵を倒して自分は倒されないようにする、つまり「やるかやられるか」のゲームであるという点で暴力的だと私は考えている。その暴力性は様々なコミック的描写(マグマに落ちれば尻に火が付く、クリボーを倒せば煙になって消える等)と、簡略な人格や設定によりデフォルメされている。しかし本作では前述のように大衆映画として成立するように行間が補われているためにこのデフォルメが弱まり、暴力描写が酷く生々しくなったと感じた。

特に何もしていないのにバナナの皮を踏まされてクラッシュする一般車、ドンキーコングにタコ殴りにされるマリオ、クッパに捧げられる生贄の面々。彼らにゲームキャラ以上の人格が備わってしまったことで、私はこれらの暴力にリアルな不快感を感じた。マリオがマグナムキラーを土管に入れたせいで、ブルックリンにはどれだけの被害が出たのだろう...。

 

それでいて、本作は死を描くことは意図的に避けているようにも見える。マリオで最も弱い敵キャラであるクリボーが踏みつぶされるシーンがたった1回しかなく、そのシーンでもクリボーは完全に潰れきる前に画面からフェードアウトする。

勿論、クッパに焼かれカロンになるノコノコ、ピーチに爆破されるボムキングなど、実際に死んだと思しきキャラがいない訳ではない。しかし、上述の暴力性にしては少なく、さらに前述のルマリーが繰り返し死を仄めかしてくることもありその少なさは不自然に感じられる。ゲームに比べて、行使される暴力とその結果が釣り合っているように見えないのだ。

結末への不満

私は本作のキャラクター造型を批判したが、実は好きなキャラクターが一人いる。クッパだ。歌を捧げ、照れながら何度もプロポーズの練習をする等ピーチへの想いは一途ながら、そのために特にピーチが望んでもいないスーパースターや生贄を用意したり、ペンギン王国を滅ぼしキノピオを拷問するなど残虐な行為も厭わない。これらの要素がナチュラルに両立されており、本作唯一といってもいい、現実の人間の価値観とはかけ離れた完全なファンタジーの存在だったと思う。(クッパはゲームでもマリオや味方キャラに比べて台詞が多いため違和感が少ないというのもある。)

 

そんなクッパは結局ピーチに強要したプロポーズを反故にされ、マリオには敗北し小さくされて鳥籠に閉じ込められる。ここに私は違和感を覚える。前述したように本作はバカにされた者の自己実現のストーリーだが、マリオがバカにされた理由の一つが低身長である以上、その敵であるクッパを小さくして終わり、というのは問題なのではないか。

そもそも単なる異邦人であるピーチが姫にまで祀り上げられるなど、本作は異世界を舞台にしながら人間優位の外見主義を感じさせる部分がある。(ゲームでも味方は人間、敵は非人間という構図ではあるので、これは異世界にしてしまった弊害といえる。)ピーチがクッパのプロポーズを断ったのは悪人だったからで、カメだったからではないと言えるのだろうか。

 

もちろんクッパが罰されるのはその悪行故ではあり、そうでなくとも交友関係もない人物からの突然のプロポーズなど受け入れられようはずもない。しかし、クッパとマリオの疑似的な共闘を描き、ピーチから袖にされた者同士としてマリオとの友情の芽生えさえ感じさせたスーパーマリオ オデッセイ』(2017、Switch)の後に見れば、これは革新的なエンディングとは言えない。本作のクッパが魅力的であるが故に、尚更残念である。

おわりに

本作はゲームのマリオシリーズを想起させる演出やクッパのキャラクターなどの魅力はあるものの、陳腐な設定やストーリー、暴力描写の生々しさなど問題は山積みであり、1本の映画として見れば個人的にはかなり不満が残る作品だった。

正直、本記事で挙げた問題点が全く気にならない、「そういうものでしょ」で片付けられる人は少なくないと思うし、この「1本の映画として」という前提自体がファンムービー的性質と相反する偏ったものだという自覚もある。ファンムービーと単体の完成度を両立した作品が1本でも多く作られればいいのだが。

しかし、マリオをやりたくなったことは間違いない。この記事も『スーパーマリオブラザーズ2』(1996、ファミリーコンピュータ)と『スーパーマリオ64DS』(2004、DS)を遊びつつ書いているし、まだ触ってない『スーパーマリオブラザーズ ワンダー』(2023、Switch)も遊ばなければという気持ちになった。そういう意味では販促としては機能しており、観た意味は十分あったと言える。