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『仮面ライダーBLACK SUN』感想:暴力は悪か正義か

今回はAmazon Prime Videoにて10月28日(金)から配信されている『仮面ライダーBLACK  SUN』の感想。冬のブラックヒーロー祭り(勝手に呼んでるだけ)第一弾である。

私はクウガからの平成ライダー世代でその時代には思い入れもあるのだが、エグゼイド以降は合わなくて今はたまに見る程度だ。本作を観たのは仮面ライダーシリーズよりも、『凶悪』(2013)、『孤狼の血シリーズ』(2018~2021)ですっかり虜になっていた白石和彌監督の名前に惹かれた部分が大きい。

正直引っかかるところはたくさんあるのだが、せっかく観るなら楽しみたいと思って、そういうところにはなるだけ眼を瞑ってみることにした。そうすると自分なりの楽しみ方も見えてきた。

そんなわけで公平ではないかもしれないが、自分なりにこの作品の魅力と問題点を書き連ねていきたい。当然ネタバレ全開なのでご注意を。

概要

まずこの作品全体を観た時、特定部分の細部の作り込みには目を見張るものがある。一方で、その裏にある思惑や真相が深く描かれることはほとんどない。この作品はキャラクターの行動や事件を積み重ねるだけで、初めからそこまで説明をするつもりが無かったんだと思う。これだけならまだいい。そういう描き方はありだと思う。

問題は、「大人向け」という売り文句に始まり、現実の社会問題をモチーフとして(それかなりの実在感を持って)取り入れたことや、そもそも「仮面ライダー」であることなど、とにかく何かしらの期待を煽る要素が多く、深堀をしない作りとの乖離が大きかったことだと私は考えている。

そしてそれに加え、原作である「仮面ライダーBLACK」へのオマージュが優先されすぎたことがノイズになり、作品の向かう先が非常にわかりづらい

それでは、より詳細な感想に入っていこう。

外面の印象

身も蓋もない話だが、監督や俳優が日本を代表する一線級の方々ばかりなので映像や演技の色気はニチアサでは到底お目にかかれないものがある。それだけで「仮面ライダー」としては見る価値があるのではないかと思えるほどだ。

俳優陣の演技は外してる人が一人もおらず、特にコウモリを始めとした他愛もない掛け合いが秀逸で、愛嬌たっぷりのキャラクターばかりである。

特撮パートに関しては、隠そうともしない着ぐるみ感とブレ多めの臨場感優先の撮り方がチープに感じられ、ドラマパートと乖離しているように感じた。暴力描写との相性はいいんだけどね、喧嘩を隣で見ている感じで。単にゴアなだけでなく、殴られた側が本当に痛そうな見せ方は仮面ライダーとしては斬新だった。

怪人のデザインは元となった生物の意匠を強く残していて割と好き。殿様飛蝗怪人は漫画版BLACKを意識しており、恐ろし気でかっこいい。あと創世王の登場シーンは思わず声が出た。そこまでに登場した怪人は限りなく人間っぽかったので、いきなり現実離れした怪物が現れて驚いた。大きさも視界に収まる程度で丁度良く怖い。

音楽に関して、曲自体は悪くはないんだが使い方がかなり残念。かっこいいシーン、泣けるシーンで同じテーマが何度もかかるので白けてしまう。ラストシーンで流れるメインテーマがあの展開を賛美しているように見えるのが顕著だが、作劇上の意図を考えると誤解を招きかねないようなちぐはぐな使われ方をしていることも少なくない。

怪人差別

今作の怪人差別描写が現実の差別をモチーフにしているのは明らかだ。社会問題に不勉強な筆者でも連想できるほどに、これらの描写はリアリティに満ちている。

デモシーンやは日本における在日朝鮮人差別そのものだし、来店お断りや裏通りでのリンチは黒人差別を連想させる。1972年篇で差別反対を訴えていた「五流護六」のモデルは学生運動だろう。

多くの人が抱くであろう感想と同様に、根本の異なる問題を混ぜ合わせてしまっているため、差別される怪人の立場がちぐはぐなものになってしまっていると感じた。

しかも人為的に作られたという怪人の出自を鑑みるに現実の差別とは質が全然異なるはずで、モチーフとして取り入れたのは安直と言わざるを得ない。

後述の政治描写にも言えることだが、異様にディティールが凝っていてリアリティがあるのがまずくて、この作品は現実の差別問題を取り上げたいんだな、と思ってしまう。しかしこの作品はそれに向き合うことはない。

かといって怪人差別描写自体が無意味な訳ではなく、作品世界に満ちる暴力の中でも、誰の意識にも潜む最も一般的で最も無自覚な暴力として差別を取り入れたのだと私は思っている。それにしたってデリカシーに欠けるのは否めないが。現実の事件を題材にした作品を得意とする監督の手癖が悪い方向に転んでしまったか。

加えてこの「差別」という話題が仮面ライダー、特に平成ライダーシリーズの文脈から見てもセンセーショナルで、必要以上にハードルが上がった面もある。

私が知る限りでも『アギト』におけるアギトや『ファイズ』におけるオルフェノク、それ以外にも人間が変化した別の生物へ向けられる恐怖や嫌悪、そして彼らとの共存の可能性を描いている作品がいくつかある。その一方で、基本的に彼らは知られざる存在として描かれてきたので、本作の怪人は既に社会に浸透している点で異なるアプローチの可能性はあったはずだった。

余りに似すぎている政治家

政治についても差別描写と同様、変にディティールが凝っていて困る。具体的には、堂波総理と幹事長が特定人物に似すぎている

持って回った歯切れの悪い喋り方とか、笑い方とかパワハラのやり口とか「いるいるこういう人」感がまたもや異様に高い。

彼個人の人物像はボンボンの2世悪役のテンプレートを当てはめただけで、流石に似せる意図はないと信じたい…。1972年篇での堂波(孫)の「俺は総理の孫だ」発言は彼の人物像を一言で表していて巧いなと思う。

最後に殺害されるのも、悪の親玉が言い逃れできてしまいそうだから殺すしかないというだけで大した政治的意図はないんだと思う。(まさかあんな事件が現実で起こるとは予想のしようもないし。)

青春の学生運動

数々のモチーフの中でも一際図に当たっていると感じたのが学生運動だ。これは政治や差別といった現在の問題に対し、学生運動は下火になった過去の事件として見ることができるからというのも大きいが、事件そのものよりもその渦中にいた人物の心情や動向に専念しているからだ。

大義を掲げてはいるが、女に釣られたやつ、威張っているが能力の無いやつ、暴れたいだけのやつと、組織の人員は充実しておらず一枚岩とは言い難い

2022年篇で大敗北を喫するように、彼らの行う「軍事訓練」も軍隊はおろかSWATにすら太刀打ちできないお粗末なもので、対峙する相手の戦力という現実が見えていない。

活動の目的よりも活動から得られる自己満足と友達を得るための組織、要するにサークルだと。このサークル五流護六に所属している人間の、それぞれ人間臭い生き方がもうたまらなく魅力的である。

サークルを取りまとめるカリスマ、ゆかりはいかにもなサークルクラッシャーで、光太郎と信彦は彼女に惹かれ大した思想もなく五流護六に加入する。妙に超善的な物言いから、なんとも言えない顔立ちに体型が出るセクシーな服装と、男を狂わせる要素満載である。光太郎と信彦、そしてオリバーが彼女の思想を受け継いでその後の人生を生きる一方で、彼女が堂波のスパイだったのか、真相は視聴者には最後まで明らかにされないのがいい。

五流護六の中心人物である後の三神官が、権力を得た途端に高圧的になるとか最高よね。怪人のためを思っているようでちゃっかり自身の保身を図るさまがもう…。そのくせ2022年篇ではそれぞれが怪人の立場を憂いていたと宣う手前勝手さが本当に人間臭い。

そして誰よりもビルゲニア、彼はこの運動を象徴している人物といっていい。強い怒りを抱えていてて一見毅然としているが、その実確たる思想も統率力もない、暴力を振るうしか能のない嫌われ者である。怨敵であるはずの堂波にさえ尻尾を振るその空虚さと行き過ぎた残虐性はどうしようもない一方、彼自身暴力の渦中で最期を迎える様は悲哀を感じさせる。

こういった人間の矮小さ故の愛らしさを描くのは白石監督の得意中の得意で、その舞台として学生運動のモチーフはこの上なく適していた。私にとってこの物語は、借り物の思想に振り回されたり、激しい怒りに突き動かされたりするかつての若者たちの悲しく滑稽な群像劇として楽しむことができた。

怪人って、なに?

この作品における怪人の設定はかなり煩雑で、練り込みは十分とは思えない。先述の通り社会的な立場が不明瞭なのはもとより、作中に登場する怪人関係のアイテムの役割が整理されているとは言い難く、要素が多い割にはドラマにはほとんど活かされない。

ヒートヘブンについては、怪人の老化を防ぐ効用と依存性があるような描写がある。しかし、禁断症状に苦しむ人物が現れるわけでもないので、依存性は政府による怪人の懐柔を成立させるための舞台装置に過ぎない

また、ヘブンは人肉と創世王のエキスを混ぜて作られるわけだが、創世王のエキスを用いて改造された怪人とはどう違うのか、あるいは怪人の肉と創世王のエキスを混ぜたらヘブンができるのか、などへの言及もない。人間を食う怪人同族を餌にして怪人を飼いならす人間の対比構造を作るだけの、これも設定どまりである。ドラマに組み込めれば結構魅力的な設定だとは思うんだが…

(余談ではあるが、怪人が人肉食に依存するという点では仮面ライダーアマゾンズを連想する人もいるだろう。しかし私はそれ以上に真・女神転生4を思い出した。悪魔が跋扈する異界と化した東京において、「阿修羅会」というヤクザ組織は悪魔と取引をして力を伸ばしており、取引材料となる悪魔の大好物「赤玉」は人間の脳髄から作り出されている。流石に偶然だとは思うがそっくりではないか。)

もう一つ気になるのが、ストーン及びベルトである。人間が怪人に改造される際には、腹部にストーンを埋め込まれる。ブラックサンとシャドームーンに埋め込まれたものはキングストーンと呼ばれ、二つ揃えれば次の創世王が生まれる点は元ネタの『仮面ライダーBLACK』と同じである。違うのは、上記のように怪人一般が持っていることと、取り出しても怪人には特に影響がないことだ。命に別状がないどころか大して痛くもなさそうだし、変身も問題なく行える。なのでキングストーンの争奪戦は光太郎と信彦の身体を離れて行われるため、元ネタのどちらかが死ぬまで終わらない闘いの宿命がない。そのため、光太郎と信彦の対立構造だけはトレースしているものの、殺し合いになる程の動機がないように見えて乗り切れない。

そしてベルトの存在。元ネタの場合ベルトを持っているのは二人の世紀王だけで、本作も最終話前半までは同様なのだが、葵の変身がすべてをひっくり返す。

光太郎と信彦の変身に関してベルト、変身ポーズ、完全体の3要素に着目してみると、彼らは不完全体の頃からベルトを発現させており、完全体になって以後変身ポーズをとるようになる。なのでベルトは彼ら二人だけが持つもので、完全体と変身ポーズが演出的に連動しているのだと思った。

ところが葵は、それまでベルトを持っていなかったにも関わらず変身ポーズをとっただけでベルトが出現し、それでいて変身後の姿はベルトがない頃と違いがない。つまり、変身ポーズとベルトの存在が連動しており、完全体は(今のところ)存在しないということになる。

回りくどくなってしまったが、作品全体で見た場合上記の3要素は全く連動しておらず独立である、要するに気分次第のかっこいいだけの要素だということだ。仮面ライダーシリーズのお約束で言うなら連動している方が自然だし、独立させる演出的意図も見いだせない。そのくせ途中まではお約束に沿っているようで後半で覆される、というのは非常に乗りづらい。この作品全体的にこういうところがあるよなあ…

誰しもが秘める暴力性

この作品の軸といえるものがあるとすればそれは「暴力」だと私は考えている。ここでいう暴力は、取り合えず「人の尊厳を傷つける行為」だと定義しておく。

本作ではあらゆる形の暴力が描かれる。犯罪映画を得意とする白石監督の本領発揮といえる、生々しく痛々しい暴力描写がてんこ盛りだ。身体への暴力、精神への暴力、更に人が無自覚に秘める暴力性も描いている。

特に印象に残っているのは、1972年篇の五流護六メンバーによる誘拐した総理の孫・堂波真一への仕打ちだ。中でも真一がトイレに行けず漏らしてしまった際の彼らの嘲笑。相手が悪いやつだから侮辱してもいい、という心理からの行動であろうがこれはいじめの構造によく似ている。侮辱の内容がしょうもないのも、相手が感じる屈辱の重大さをいじめている側が軽視するところもいじめっぽい。これをやっているのが主人公側だというのが肝で、正義感のある人物にも秘められた、無自覚な暴力性を描きたいのではないか。

暴力を振るわれても他者が守ってくれるのにも限度があり、最終的には自分自身が同じ暴力を以て抗うしかない。誰しもが暴力を振るう側に立っており、純粋な被害者といえる人物はいないといっていい。そのような世界で暴力を以て他者を守ろうとし、守り切れない「仮面ライダー」を描くことは意義のあることだったと私は思う。

その結論であるところのエンディングにはかなり思うところはあるが。

やられっぱなしであまりに多くのものを失った葵が、攻めることと守ることをイコールで考えるようになるのは納得できる。露悪的ではあるが、適当な免罪符で主人公側だけが暴力を肯定されるような結末よりはフェアだと思う。

葵自身、差別主義者に対する暴言やビルゲニアへの殺害予告など、敵と見た相手には攻撃的な態度を取る、融和よりむしろ闘いを好む性格ではあるし。彼女の怪人態が両手が凶器のカマキリであったり、最終的な彼女の姿が「ベルトを巻いて変身ポーズをとる怪人」というのも考えさせられる。ヒーローとしての博愛精神と怪人としての暴力性を両立しているということなのかも。

その一方で、暴力を嫌なものとして描く作品であれば、やはり暴力に頼らない結論を出してほしかったというのが本音である。葵は光太郎からは優しさと戦い方を受け継ぎ、信彦と同じ怒りとカリスマ性を持っている。しかし、二人の仮面ライダーから受け継ぐものはあれど、次のステップに進めることは出来なかったというのはなんともやるせない。

一応、光太郎は葵に戦い方を教える際に「拳銃でも買った方が早い」といって戦闘訓練の意義を否定している。また、信彦の指揮した突入作戦はほぼ全滅の大失敗で、実戦性を欠いた格闘訓練と手作り爆弾によるテロ行為は無力なものとして描かれる。つまりラストの少年兵育成はこれっぽっちも「正解」ではない。何もしないよりまし、程度の絶望的な抵抗だろう。

まとめ

キャラクターの実在感や現実の事件の再現など表層的なディティールの作り込みや映像の力強さには目を見張るものがある一方、設定の練り込みや背景の掘り下げに関しては不十分でアンバランスな作品である。監督の得意とする暴力描写は仮面ライダー史においては一定の価値があるものだと思う。ニチアサでは描けないような救いのない終わりも嫌いではない。

満足とは言い難いが好きな場面もあるので、惚れた弱みということで可能な限り楽しんだつもりだ。