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『ソー:ラブ&サンダー』感想 おあずけは大切

モンハンにハマっているうちに随分時間が経ってしまい、気が付けば半月以上記事をアップしてなかった。書くことがなかったわけではなくむしろ作品は結構見たはずなのだけれど、やはりゲームはかなり時間を奪われる。もうちょっとうまくはいぶんできるようになりたいな。

さて、今回は7月8日に公開された『ソー:ラブ&サンダー』の感想を書いていこうと思う。

観終わった後の第一印象ははっきり言って物足りなかった。ストーリーはありきたりだがヒーローものとしては王道で、登場人物の魅力的な設定や俳優たちの一流の演技など素材は充実しているが、最大限に活かされているとは言い難い。

その理由は堪え性のなさにあると私は結論付けた。監督が見せたいであろうクリス・ヘムズワース演じるソーやギャグのためのシーンが全面に出過ぎており、抑制が効いていない。そのため展開がカタルシスに乏しく、脇役の掘り下げも時間が足りず不十分なものだった。

それでもこの映画に対して惜しむ気持ちはあれど、嫌いにはなれない。根底にある愛やヒーローへの価値観は真っ直ぐなもので、不誠実さはなかったからだ。

 

 

ネタバレ注意。

 

 

(以下、今作に登場する二人のソーについて、これまでシリーズの主役として活躍してきた方ををソー、ジェーンがムジョルニアの力で変身する方をマイティ・ソーとして表記を統一することにする。)

 

ストーリーについて

今作のストーリーの主軸は、数々の喪失から他者との深いかかわりを避けるようになったソーが再び愛と向き合うまでの物語である。

かつての恋人ジェーンとの再会と交流を通して、じっくりと描かれている。MCUは、シリーズの特徴である情報量の多さとその整理の結果として、守られる側に立つヒロインのシーンは少なくなる傾向にあり、仲を深める過程が丁寧に描かれることは少ない。今作はジェーンがヒーローになったことでこの問題が解消されており、ヒーローとしての冒険活劇と甘酸っぱいラブコメを両立することに成功している。

一方、サブキャラクターの関与が薄いのが残念だ。ゴアやヴァルキリー、そしてガーディアンズ・オブ・ザ・ギャラクシーの面々はそれぞれ大切な人物を喪った経験があり、それぞれの形でトラウマと向き合っている。クイルの助言やヴァルキリーの恋バナなど印象的なシーンもあるが、もっと有機的に多くの人物とソーが交流していればより共感できる物語になっていただろう。

中でもヴァルキリーは振り返ってみると、圧倒的な強敵により大切な人をほとんど失い絶望し、長期間の逃避を経て仲間の助けで再起し復讐を成し遂げたキャラクターであり、今作までのソーの経緯と一致する。そして彼女は王としての新たな生き方を確立しており、自分探しをするソーの正しい人生の先輩といえる。絡ませない手はなかったと思うが…。相変わらずテッサ・トンプソンは存在感あふれる演技は、性的マイノリティー描写も含め彼女を型にはまらない唯一無二のキャラクターにしている。気怠げな話し方やスキンシップが特徴的で、皮肉っぽくも愛情深さが見て取れる魅力的な人物で、彼女を主人公に一本作って欲しい。

 

そして、そもそもこのドラマを主軸に据えること自体が少し難があると思う。今回ソーが遂げる成長は、エンドゲームでトラウマを抱えた彼が再出発をした時点から予想のつくものであり、映画一本分の内容としては意外性に乏しい。父親の過去や自分の価値を保証していたムジョルニアの破壊といったアイデンティティの危機に直面しながら、指導者として自立し民を守るために大きな決断を下した前作『ラグナロク』と比べると尚更である。エンドゲームまでにあまりにも多くを失い一度心が壊れたソーの成長のために改めて喪失を経験させるのもいまいちテンポがよくない。

そしてもう一つの軸としてソーとマイティ・ソーの二人を巡り、ヒーローがどうあるべきかを描こうとしている。ジェーンが内に秘める闘争心や、神とヒーローを同一視し両者に求められる弱者救済の精神を示す物語は魅力的ではあるが、表面的なものにとどまってしまっている。

神々を憎むゴアはソーの神としての在り方を問いかけるキャラクターのはずだが、彼が神々の根絶を志す経緯が説明的に処理されてしまうせいで共感しづらい。また、実際に神を殺害する描写も1度しかなく、ソーとの対話も不十分なため、ソーとの対比が設定から読み取れる範疇から発展しない。本来力で劣る人間である彼が神々を全て殺害するという目的は途方もないもので、その目的に殉じるストイックさと悲劇性が彼の魅力なのだろうというのは事前に想像がついていたが、「永久」の設定がかなり興ざめで、手ずから殺すことに固執してほしかった。クリスチャン・ベールの演技は素晴らしく、ゾンビ的造形やローブをまといたった一つの凶器を携えた姿もMCUの悪役としては新鮮だっただけにうまく生かされなかったことが残念だ。

マイティ・ソーに関しても、うまく扱い切れていない。ナタリー・ポートマンは流石で、年齢を重ねながらも十分な美しさを発揮しつつ、過度に俗っぽかったり子供っぽかったりする様が、上記に追い詰められた彼女の不安や恐怖の裏返しとしてきちんと機能している。しかし物語的には、前述のジェーンの闘争心が唐突かつこれまた説明的に処理されてしまっている。人間でありながら神の力を手にした彼女の持つ視点はこの作品において唯一のものであり、彼女はゴアとソー双方へ共感しながら独自の解決策を提示しうる存在である。このようにソーと同じかそれ以上にこの物語の中心になりうる素養を持っているのだが、彼女はほとんどソーの相手役としての役割を出ることがない。

終盤の戦闘シーンから「永久」までのシークエンスでは上記の2つの命題が同時に解決する美しい構成が楽しめる。自身が守るべきアスガルドの子供たちを遠ざけるのではなく力を分け与え共に闘うソーは、もはや物語開始時点の彼ではない。やや淡白に描かれているのが勿体なく、カタルシスに欠ける感も否めないが。

また、そのうえでソーが至る結末は自分にとってはほとんど納得のいくものではなかった。かつての恋人を喪い新たに子を得るという展開は将来性の大きさで人間関係に優劣をつけているように見えてしまいノイズになった。何よりジェーンが死ぬことの物語的必然性が見出せなかった。ソーがジェーンの最後を看取る一方でダーシーやセルヴィグは死んだことさえ知らないかもしれず、ソーの願いを聞き入れていないことも含め、ジェーンが愛と向き合っていない様に映るのは後味が悪い。

ただ一つ、自分なりにジェーンの最期について納得のいく一つの仮説を立てた。回想シーンで描かれたソーとジェーンの破局は多忙故の共同生活の破綻が原因として描かれているが、互いの意見や生き方の違いの擦り合わせを十分に行っていないことが本質的な原因だと自分は考えた。最終的にはジェーンが自分の人生を優先しソーの元を去っている。この構図は、ムジョルニアの魔力によってジェーンの抵抗力が弱まり病状が悪化していると発覚したのちのソーとジェーンのやり取りと対照的である。ジェーンが少しでも長生きすることを願うソーと、闘い続けることを望むジェーンは互いの妥協点を見つけることはできず、最終的にジェーンが意志を貫き死を覚悟してマイティ・ソーとなる。相違点はかつては遠ざかった物理的距離が、今度は近づいている所だろうか。このようにソーとジェーンが最終的に結ばれたのか、むしろ再度破局していたのかは見方によって変わる。そのうえで、ジェーンが愛に向き合うことをしなかったと考えるならば、この映画のルール上で彼女は失敗したことになり、死ぬことにはある程度の物語的必然性があるのかもしれない。個人的には死んでほしくなかったが。

 

気に入ったシーン

ソーとマイティ・ソー、ストームブレイカーとムジョルニアの四角関係は面白かった。武器の擬人化は新鮮で、今作唯一の鉄板ギャグだと思った。人には距離を置きがちなソーがムジョルニアには遠慮なく執着をむき出しにするのがドラマ的にも有効に働いている。実は筆者はマイティ・ソー1、2作目を未鑑賞なのだが、ムジョルニアの名前が呼ばれるシーンを始めてみた。発音は「ミヨネア」だったんだ。

マイティ・ソーとヴァルキリーのガールズトークはいつまでも見ていたかった。ワイティティは前作から女性キャラは良いキャラを創造し続けており、それだけで見る価値があるとまで思えてくる。せっかく出したんだからシフも絡めて欲しかった。いっそこの3人でロードムービー的にぐだぐだ色んな星を巡って戦う作品とかさ。ジェーンは癌、ヴァルキリーはヘルとの闘いのトラウマ、シフはソーへの失恋(あと隻腕)という風にそれぞれ違った弱さを持っててドラマ的に幅も持たせられそうだし。

影の国での戦闘シーンはなかなか良かった。モノクロになって少しの間は「今時モノクロでドヤられても困るぞ」と思っていたが、ソー側の魔力がカラーで表現されるのは巧いと思った。ゴアが影を広げて魔獣を召喚する描写との対比として見れば、色に覆われた世界で影を用いて戦うゴアが実は圧倒的マイノリティーで、孤独な反逆者としてのゴアの在り方が強調されてかっこよく見えるようにもなるし。

影の国に限らず今作の色遣いは特徴的で、衣装にもそれが表れている。これまでにないブルーを取り入れたソーの衣装はド派手で、俳優の非凡な肉体と見栄っ張りなマスクまで含めまさにコミック的である。他キャラクターの衣装や異星人、「全能の町」などにもかなり鮮やかな色遣いがされており、ばかばかしくも楽しく観ていられる。

 

今日のマスク

マイティ・ソーは考えてみればMCUにおいては結構稀有な存在で、マスクをつけた変身ヒーローであり、それでいて女性である。一つ一つでも少数派なのにこれらを併せ持っている人物は原作でもそれほどいないんじゃないだろうか。

マスクの意味もキャプテン・アメリカアントマンのような単に機能的なものではなく、癌に侵され弱ったジェーン・フォスターの人格を覆い隠し万能のヒーローたるマイティ・ソーとしての人格を纏うという、ドラマ的意味を持ったものである。

更に変身について。狼男やジキルとハイド、アメコミにおいてはそれらを意識したであろうハルクなど、西洋では変身という行為は自分を失うネガティブなものと捉えられがちな気がする。と言ってしまえば偏見かもしれないが、少なくともMCUにおいては肉体的変質を伴う変身を行うヒーローは自分の記憶する限りでは今までハルクしかおらず、そのハルクも最終的にバナーと統合されたところを見るに、あまり一般的ではないのだろう。マイティ・ソーは変身後も理性を保っていることを鑑みれば今のところMCU唯一の存在ではないか。最もその変身はジェーンを害するものではあったのだが。

日本で育った自分にとってヒーローは変身し覆面を被っているのが当たり前だった。加えて個人的に女性ヒーローが好きなこともあり、マイティ・ソーMCUの中でも1、2を争うほど好きなキャラクターになってしまった。映画を観るまでは、ただヒロインをヒーローに置き換えただけの中身のない存在だと思っていたが、なかなかどうして。

コミックも購入してしまったので、そちらの感想もいずれ書きたい。